翌年、Army Inspectorate のチーフとなるが、クロアチアの新聞 Nacional に軍事クーデターを起こそうとしていると報道され、2002年に解任されている。新聞社のリポーター、イヴォ・プカニッチ(Ivo Pukani?)は、Army Inspectorate の関係者たちはIRA暫定派やETAといったテロリストグループに武器を供給していると告発したが、証明はされていない。 2001年7月、ICTYはクロアチア政府に対して、ゴトヴィナとラヒム・アデミ
戦争犯罪容疑
この起訴状はすぐに論争を呼ぶものとなった。政府がICTYへの協力を決定したため、ゴトヴィナ支持の人々は強く抗議し、テニス選手のゴラン・イワニセビッチといった著名人も二人の引渡しに反対するキャンペーンに参加した。その後ラヒム・アデミは任意投降したがゴトヴィナは拒否、逃亡生活を余儀なくされる。
4年の間、ゴトヴィナはアメリカやEUから自首するようにとの圧力を掛けられていたが逃亡生活を送った。2005年9月、BBCはゴトヴィナがクロアチアかボスニア沿岸のフランシスコ会修道院に潜伏していると報道した。当時、ゴトヴィナはクロアチア政府の一部や軍、更にはカトリック教会からも援助を受けていると考えられていた。同じ月、ICTYのカルラ・デル・ポンテは、ゴトヴィナを保護しているとしてバチカンを公に非難したが、バチカン側はこれを否定した[5]。
クロアチア以外の国々もゴトヴィナを追跡し、国際刑事警察機構から令状も出された。アメリカ政府はゴトヴィナ逮捕に5百万ドルの懸賞をかけた。イギリスやオランダ等は、ゴトヴィナ逮捕がクロアチアのEU加盟交渉開始の条件の一つであるとした。クロアチア政府はこれに対し、政府側もゴトヴィナの居場所をつかんでおらず、すでに海外に逃亡したのではないか、また逮捕には最大限の努力を払っていると語った。EU加盟交渉は2005年3月17日に始まる予定であったが、前述の理由で延期された。トルコとの加盟交渉の停止に伴い、結局10月に再び交渉が始まった[6]。ICTYは同時期、クロアチア政府はICTYに全面的に協力していると公表したが、詳細は語られなかった。 クロアチア国内では、ゴトヴィナに対する評価は二分している。多くの国民は英雄と見ており、戦争時に犯罪行為はなかったとしている。しかし、国としての繁栄は一人の男を守る事よりもEUに参加できるかにかかっているとか、同じくICTYに起訴されていたアデミは自首投降したのに、なぜゴトヴィナはしないのかとの声もあった。 ゴトヴィナは徐々にクロアチア文化の中で偶像視されるようになっていった。右派の思想で知られているクロアチアの著名なミュージシャン、マルコ・ペルコヴィッチ・トンプソン(Marko Perkovi?
大衆の反応
ゴトヴィナはスペイン領で逮捕されたが、それに伴い抗議行動が起こった。2005年12月11日には退役軍人達により集会が組織され、40,000(ロイターによる)から 70,000(クロアチアのメディアによる)の人々が集まった。スプリトでも逮捕に反対する集会が行われ、退任した司令官達も参加した。
逮捕と裁判でスペイン警察により逮捕された。ゴトヴィナは Kristijan Horvatという偽名のパスポートを使用していた。パスポートにはアルゼンチン、チリ、ロシア、中国、チェコ、タヒチといった国々のスタンプが押されていた。また、12,000ユーロの現金が部屋で発見された。ゴトヴィナはすぐにマドリッドに送還され、ハーグのICTYへの送還まで留まることになった。スペイン警察はその後、クロアチアの諜報機関の助けを得て、ゴトヴィナを逮捕前の数日間追跡していたことを明らかにした。
2005年12月10日、ゴトヴィナはハーグに送還され、12日にICTYに現れた。彼は起訴状にある7つの容疑すべてに関して無罪を主張した。
ゴトヴィナの弁護士によると、ゴトヴィナは自身のことを、訴因に書かれているような人間ではないと語った[7]。