アンテミウス帝の婚姻政策には唯一の娘アリピア(英語版)と西帝国における有力者である軍務長官リキメルとの結婚も含まれていた。467年末にローマへ到着していた詩人シドニウス・アポリナリスは全ての社会階層がこの結婚を祝福していたと述べているが、彼はまた新婦のアリピアが夫となった蛮族出身のリキメルを好んではいなかったともほのめかしている[11]。
ヴァンダル族との戦争ヴァンダル王ガイセリック
北アフリカのヴァンダル族は西帝国にとっての最重要の懸案であった。467年後半にアンテミウス帝はマルケリヌスを指揮官とする西ローマ軍を編成させ、ヴァンダル族に対する戦争を仕掛けたが、悪天候によって作戦を終える前に艦隊が引き返さざるをえず、失敗に終わった。
468年、東ローマ皇帝レオ1世そして西帝国のアンテミウス帝とマルケリヌス将軍による大規模なヴァンダル王国攻撃が計画された。総司令官はレオ1世の義弟のバシリスクス(後にゼノン帝に対する対立皇帝となる)が務めた。東西合同軍を輸送するための大艦隊が編成され、その戦費のほとんどは東帝国が負担したが、西帝国の財務も相応の負担をしていた[12]。作戦はエジプト軍区督軍のヘラクリウス(英語版)がトリポリタニアを制圧するとともにマルケリヌス将軍の西ローマ軍がサルディニア島を確保し、そして1013隻の船団によって運ばれるバシリスクスの東ローマ軍本隊10万がカルタゴへ上陸することになっていた[13][6]。だが、カルタゴ近くのボン岬半島まで到着したバシリスクスの船団はガイセリックの偽りの降伏申し出によって休戦を受け入れてしまい、その隙を突いたヴァンダル軍の火船攻撃によって船団の半数を失う大敗を喫した(ボン岬の戦い(英語版))[14]。バシリスクスはコンスタンティノープルに逃げ帰り、マルケリヌスは(恐らくはリキメルの指金により)部下に暗殺された[15]。
レオ1世はガイセリックとの単独講和を決めた。アンテミウス帝は同盟国を失い、この作戦の失敗によって帝国の国庫も窮乏しており、アフリカ奪回を諦め、帝国にとっての第二の問題である西方領土の確保に取り組むことになり、その目標は西ゴート族であった。
西ゴート族との戦争西ゴート王エウリック
北アフリカでの壊滅的な敗北の後、アンテミウス帝はガリア再征服に方針転換した。野心的なエウリック王を頂く西ゴート族は西帝国の政治的な不安定を付いてその領土を蚕食していた[16]。エウリック王の勢力圏はガリアの帝国領の幾つかを本土から分断していた。南ガリアのアレラーテ(現在のアルル)とマルセイユは依然として帝国の統治下にあったが、アヴェニア(現在のクレルモン=フェラン)は孤立化して廃帝アウィトゥスの子のエクディキウス(英語版)が支配しており、後にソワソン管区と呼ばれる帝国残存地域はさらに北方にあった。
470年、アンテミウス帝はエウリックと戦うためにアルモリカ(ブルターニュ半島)に住むブルトン族を雇い入れた[17]。当初、ブルトン王リオタムス(英語版)の2万人の軍勢はブールジュの占領に成功した。だが、西ゴート族領域の中心部に攻め込みデオル(英語版)の町を攻略しようとしたとき、ブリトン族は西ゴート族の大軍と戦い敗北した。リオタムスはローマの同盟部族であったブルグント族の元へと逃れた[18]。
このため、アンテミウス帝は西ゴート族を直接攻撃することに決めた。彼は皇子アンテミオルゥス(英語版)を名目上の司令官とし、トリサリウス将軍、エヴェルディンゴス将軍そしてヘルミアヌゥス将軍に軍を召集させた。アンテミオルゥスの軍はアレラーテを出立してローヌ川を渡ったが、ここでエウリックの西ゴート軍に迎え撃たれた。西ローマ軍は敗北して、将軍たちは戦死し、周辺地域は略奪された[19]。 アフリカの支配は失われ、西方諸州の支配も不安定なものになっていたが、アンテミウス帝のイタリア支配もまた反対勢力によって脅かされていた。彼は東宮廷から東ローマ皇帝によって選ばれたギリシャ出身者であり、これに加えて異教徒ではないかと疑われてもいた[20][21] 元老院階級からの支持を得るためにアンテミウス帝はイタリアやガリアの支配階層にパトリキウス(貴族、名誉顕官)の称号を乱発した。彼は東帝国では一般的だった市民へのパトリキウス称号の授与を行い、非常に多くの貴族階層にもこれを与えたために称号のインフレ状態になっている[6]。 新たなパトリキウスにはロマヌス
内政
両帝国の良好な関係はプロパガンダに用いられた。アンテミウス帝はメディオラヌム (英語版) (現在のミラノ)、ラヴェンナそしてローマに造幣所を有しており、統一を示す二人の皇帝が手に手を取り合うソリドゥス金貨が発行された[6]。アンテミウス帝が宮廷をローマに再建したため、ローマの造幣所が他の二つよりもより一層重要になっている[6]。