アンティゴノス1世
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紀元前320年オルキュニアの戦いでエウメネスを破って彼をカッパドキアノラに追い詰め[8]、翌年のクレトポリスの戦いでペルディッカスの弟アルケタスらを破り、アルケタスを自害に追い込んだ[9]。一方この頃、マケドニア本国では帝国摂政となっていたアンティパトロスが死去し、その後継にポリュペルコンが指名された。しかしアンティパトロスの子カッサンドロスがこれに不満を持ったため、摂政の地位をめぐっての争奪戦が勃発し、これがディアドコイ戦争を更に激化させることとなった。

アンティゴノスはカッサンドロスの側につき、ポリュペルコンに支援されてノラを脱出したエウメネスと再び戦った。紀元前317年パラエタケネの戦いでは引き分けたが[10]紀元前316年ガビエネでこれを降した[11]。アンティゴノスは捕えたエウメネスを味方にしようと思ったが、部下の反対によりそれを断念せざるを得なかった[12][13]。彼はかつての友に暴力を振るうを良しとせず、エウメネスを餓死させることにしたが、エウメネスはアンティゴノスのあずかり知らないところで殺された。行軍のどさくさにまぎれる形でアンティゴノスの部下に喉をかき切られていたという [14][15]。 アンティゴノスはエウメネスのために盛大な葬儀を挙げ、遺灰は銀の壷に収めて妻子の元に送った。又、ガビエネの戦いの後、アンティゴノスの同盟者でパラエタケネおよびガビエネでアンティゴノスの副将的地位にあったメディア太守ペイトンが帝国東方領土への野心をみせたため、アンティゴノスはこれを殺した。

ペルディッカス、ポリュペルコン、エウメネスの側についた諸将を倒し、その勢力を吸収し続けた結果、アンティゴノスの勢力は、この頃には小アジアを中心にシリアメソポタミアに及ぶまでになり、その強大さはディアドコイ中でも特出したものとなっていた。そのため、これを警戒した他のディアドコイとの対立が激化することとなった。以後、アンティゴノスはアレクサンドロス帝国の再統一を果たさんと、セレウコス・プトレマイオス・カッサンドロス・リュシマコスらと主に東地中海沿岸を中心に戦争を繰り広げていくこととなった。
ディアドコイ戦争の最有力者

エウメネスとの戦いにおいて、バビロニア太守セレウコスと同盟していたアンティゴノスだったが、エウメネスを倒すと、これを疎んずるようになり両者の関係は急速に悪化した。紀元前315年、アンティゴノスはセレウコスの領土を奪い、セレウコスはエジプトのプトレマイオスのもとへ逃亡した。更なる勢力の拡大を目指すアンティゴノスはカッサンドロスとの同盟を破棄し、シリアから海路を経由してギリシア(カッサンドロスの勢力圏)に遠征を開始した。こうしてアンティゴノスと他のディアドコイとの対立は決定的となった。

紀元前312年、アンティゴノスに反撃せんとプトレマイオスがセレウコスを伴ってシリアに攻め込んだ。アンティゴノスの息子デメトリオスが迎撃するも敗走し(ガザの戦い)、アンティゴノス自らがシリアに出陣した[16]。しかし、その間隙を突かれ、プトレマイオスの支援を受けたセレウコスがバビロニアに帰還。これを奪回されてしまった。アンティゴノスはセレウコスを討伐しようとするも手古摺り(バビロニア戦争)、その隙にプトレマイオスが東地中海沿岸で勢力を伸ばしたため、プトレマイオスと再び矛を交えることとなった。

紀元前306年サラミスの海戦で、息子デメトリオスがプトレマイオスに対し勝利したのを受け、彼と共に王位に就くことを宣言した。アンティゴノスが王位を宣言したのに伴い、他のディアドコイも王を称するようになった。アンティゴノス・デメトリオス父子は続くロードス包囲戦でも優位に戦いを進め、ギリシアに侵攻した。紀元前302年、アンティゴノスは自身を盟主とするヘラス同盟をギリシアで結成した。こうしたアンティゴノスの勢力の更なる伸張を恐れた他のディアドコイ(セレウコス・プトレマイオス・カッサンドロス・リュシマコスの四者)は反アンティゴノス同盟を結んで対抗した。

紀元前301年、アンティゴノスはこの同盟を粉砕せんと小アジアのイプソスでセレウコス・リュシマコス連合軍と決戦に及ぶも、デメトリオスの部隊と分断されて孤立したアンティゴノスの本隊は打ち敗られ、自身は投槍を受けて戦死した(イプソスの戦い)。82歳であったと言われている。ディアドコイ中最有力であったアンティゴノスが倒れたことで、彼の大望でもあったアレクサンドロス帝国の再統一は不可能となり、分裂が決定的となった。
^ アッリアノス, I. 29
^ クルティウス, IV. 1. 35
^ ibid, IV. 5. 13
^ ディオドロス, XVIII. 3
^ クルティウス, X. 10. 1
^ ディオドロス, XVIII. 36
^ ibid, XVIII. 39
^ ibid, XVIII. 40-41
^ ibid, XVIII. 44-47
^ ibid, XIX. 27-31
^ ibid, XIX. 39-44
^ プルタルコス, 「エウメネス」, 20
^ コルネリウス・ネポス, 「エウメネス」, 10
^ プルタルコス, 「エウメネス」, 19
^ コルネリウス・ネポス, 「エウメネス」, 12
^ ディオドロス, XIX. 80-85, 93

参考文献

アッリアノスアレクサンドロス大王東征記(上)』 大牟田章訳、岩波文庫、2001年

コルネリウス・ネポス『英雄伝』 上村健二・山下太郎訳、国文社<叢書アレクサンドリア図書館>、1995年

クルティウス・ルフス『アレクサンドロス大王伝』 谷栄一郎・上村健二訳、京都大学学術出版会<西洋古典叢書>、2003年

グナエウス・ポンペイウス・トログス/ユスティヌス『地中海世界史』 合阪學訳、京都大学学術出版会<西洋古典叢書>、2004年

プルタルコス英雄伝 4』 城江良和 訳、京都大学学術出版会〈西洋古典叢書〉、2015年 - エウメネス伝の新訳

プルタルコス『新訳 アレクサンドロス大王伝』 森谷公俊訳註・解説、河出書房新社、2017年

外部リンク

ディオドロスの『歴史叢書』の英訳版

プルタルコスの「エウメネス伝」の英訳プロジェクト・グーテンベルク内)

先代
アンティゴノス朝の君主
紀元前306年 - 紀元前301年次代
デメトリオス1世

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