アンジュー帝国
[Wikipedia|▼Menu]
フランスでは「Espace Plantagenet」(プランタジネット朝の領域)は時々、プランタジネット家が支配した封土に関する記述として用いられる[6]

「アンジュー帝国」という呼び名は、半世紀にも及ぶ同君連合によりイングランドとフランス間の互いの影響が広まったという点で再評価を迎えた。アンジェヴィン(アンジューの)という言葉自体はアンジュー地方及びその中心都市であるアンジェの居住者に用いられる。プランタジネット家はアンジュー伯ジョフロワ1世の子孫であるため、この言葉が使われた[7]

「帝国」という言葉は何人かの歴史家の間で論争を呼び起こした。領域はヘンリー2世の相続と占領によって統合されたからである。これらの領域において何らかの共通のアイディンティティーが共有されたのかは明らかでない[8][9][10]。何人かの歴史家は、当時の西ヨーロッパに唯一の帝国と呼ばれた政治組織である神聖ローマ帝国が存在していたことから、「アンジュー帝国」という言葉は完全に保留すべきだと論じた[11]。別の歴史家はヘンリー2世の帝国は強力ではなく、中央集権的ではなく、また広大でもないので帝国と呼ぶにはふさわしくない、と論じた[12]。「アンジュー帝国」という言葉によって仄めかされているような、帝国の称号はそこには存在していなかった[13]。しかしながら、幾人かの年代記作家達(特にヘンリー2世自身に仕えていたような人物)は、たとえプランタジネット家自身が帝国の称号を主張していなくとも、このような領土の集積を形容するのに「帝国」という言葉を用いた[14]

実際の最高位の称号は「イングランド国王」であり、それにフランスの地のの称号が加わるが、それらは完全かつ全体的に独立しており、幾つかはイングランドの法には属していなかった[15]。これらのことから何人かの歴史家は、アンジュー帝国は互いの結び付きが緩い7つの独立した君主国が集まっていることを強調して「連邦帝国」という言葉を用いている[16]
地理と行政

アンジュー帝国が最大領域を誇っていた頃には、イングランド王国アイルランド太守領ノルマンディーガスコーニュアキテーヌ(ないしはギュイエンヌ)の各公国[17]アンジューポワトゥー、メーヌ、トゥレーヌ、サントンジュ、ラ・マルシュ、ペリゴールリモージュナントケルシーの各伯領から成り立っていた。この中の幾つかの公国や伯領は同時にフランス王の封臣であった[18]プランタジネット朝はまた、ブルターニュコーンウォールの両公国、ウェールズ諸侯トゥールーズ伯、スコットランド王国を影響下においていたが、これらは帝国には含まれない。ベリーオーヴェルニュも帝国の主権下にあると主張していたが、これらは満たされていなかった。

フランス王領・ノルマンディー公国間の国境はよく知られており、容易に描くことができる。その一方で他の土地では曖昧であった。特にアキテーヌの東方国境地帯がそうであり、そこではヘンリー2世と後のリチャード1世獅子心王が主張していた国境と、実際に彼らの権力が及ぶ範囲には、しばしば隔たりがあった[19]。アンジュー帝国の最も重要な特徴の一つとして「polycratic(=多権力性)⇔monocracy(独裁)」がある。この言葉は、アンジュー帝国のある臣民が書いた最も重要な政治的パンフレットが由来である、つまりジョン・オブ・ソールズベリ(ソールズベリのヨハンネス)の『Policraticus』である。

イングランドは徹底した統治下に置かれ、恐らくは最も統治が行きとどいた場所であった。王国は州長官(治安判事)が統治するに分けられて法令が強いられた。国王が不在の間は名声があるものが最高行政長官(大法官・ユスティティエ)に任じられた。イングランド王は大概はイングランドよりもフランスに滞在し、他のアングロ・サクソンの諸王よりも膨大な令状を用いた。奇妙なことに、このことは他の何よりもイングランドを助けることになった[20]ウィリアム1世征服王の許ではアングロ・サクソン系貴族はアングロ・ノルマン人系貴族に取って替わられた。ただし、アングロ・ノルマン系の貴族はかなりの大きさの連続した土地を所有できなかった(離れた所にしか所領を持てなかった)ので、貴族達が国王への反逆を起こすのをより一層困難にしたと同時に、自分達の土地すべてを一時に防衛するのを困難にもした。イングランドの 伯(Earl) (アングロ・サクソン由来のエアルドルマンに任じられたもの)は大陸にも同様に伯(count) 領(カール大帝由来のコント・伯)を有した。しかしながら彼らの中で国王に勝る者はいなかった。
アンジェ城とその城壁。ここから市街やメーヌ川が見渡せる。現在の城はアンジュー帝国以後に建てられた。

大アンジュー[21]では例えばプレヴォ(代官)en:prevotsやセネシャル(家令)en:seneschalsといった2つの種類の役人によって統治されていた。これらの役人・役所はトゥールーズシノン、ボージェ、ボーフォール、ブリッサク、アンジェソミュール、ルーダン、ロシュ、ランゲー、モンバゾンなどに設置されていた。しかしながら他の地域ではプランタジネット家の行政下に置かれておらず、他の一門によって統治されていた。例えばメーヌは当初は大部分の地域が自治され、行政機構を欠いていた(他の家門が統治している地域にはアンジュー家は介入できなかった)。そこでプランタジネット家はル・マンのセネシャルseneschal of Le Mansに代表されるような新しい行政官を任じることによって行政機構の改善を図ろうと努めた。これらの改善策は余りにも遅過ぎたが、カペー家が大アンジューを吸収した後にその恩恵に与ることになった。[22]

ガスコーニュの統治は大変緩やかで、アントル・ドゥ・メール(字義は二つの海の間だが、ドルドーニュ川からガロンヌ川までの間の地域)、バイヨンヌダクスにだけ滞在している役人たちと、さらにサンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼路とガロンヌ川の水路をアジャンのあたりまで管理する役人たちとを設置していただけだった。ガスコーニュの残りの地方は行政下に置かれず、それらの大部分は他の地域と同じ程度だった。かつてのポワティエ家の公のようにアンジュー家が全公国に自らの権威をもたらすのは難しかった[23]。ガスコーニュは支配者には魅力がなかった、というのもその景観がひとつの理由であり、もうひとつは強固な統治をそこにもたらすことが難しいことである[24]

ポワトゥーとギュイエンヌでは城はギュイエンヌに集中していた。そこには公的な代理人がいたが、その一方で東方のペリゴールとリモージュにはいなかった。加えて、これらの地域では領主はあたかも主権をもった小君主のようにして統治し、貨幣を打造するなどして領地に自分達の力を誇示した。リチャード1世獅子心王 自身がリモージュで死去している。

ノルマンディーはアンジュー帝国下では恐らく最も重要な行政地の一つである。プレヴォ(代官)Prevotsと副伯(ヴィコント)は裁判権と死刑執行を司るバイイの前に自分達の有利な立場を失った。彼等は12世紀頃にノルマンディーに導入され、イングランドの治安判事のように組織化された。フランス王領とノルマンディ公領の国境ではノルマンディー公の力は強大だったが、他の地域ではより緩やかだった。

アイルランドにはアイルランド太守領がおかれたが、当初はその統治には困難が伴った。ダブリンレンスターではアンジュー家の支配が強化され、コークとリムリックとレンスターではアングロ・ノルマン系貴族に支配された[25]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:166 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef