アロー戦争
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これに対し当時の広州領事ハリー・パークスは、清の両広総督欽差大臣である葉名?に対してイギリス(香港)船籍の船に対する清国官憲の臨検は不当であると主張し、また逮捕の時に清の官憲がイギリスの国旗を引き摺り下ろした事は、イギリスに対する侮辱だとして抗議した。葉名?はこれに対して国旗は当時掲げられていなかったと主張したが、パークスは強硬に自説を主張し、交渉は決裂した。実際には、事件当時に既にアロー号の船籍登録は期限を数日過ぎており、アロー号にはイギリスの国旗を掲げる権利は無いし、官憲によるアロー号船員の逮捕は全くの合法であった。しかし、清国側の葉名?も基本的な事実関係の調査を全く行わず、この事実に気がつかなかった。
開戦広州に侵入する英仏連合軍広西省で殺害されたフランス人宣教師、オーギュスト・シャプドレーヌ八里橋へ侵攻するフランス軍

パークスの行動を見た清国駐在英国全権使節兼香港総督ジョン・ボーリングは現地のイギリス海軍を動かして広州付近の砲台を占領させた。これに対して広州の反英運動は頂点に達し、居留地が焼き払われた。

イギリス首相パーマストン子爵は現地の対応を支持し、本国軍の派遣を決定するが、議会の反対により頓挫した。パーマストンはこれに対して解散総選挙を行い、今度は議会の支持を受けて、現地に前カナダ総督の第8代エルギン伯爵兼第12代キンカーディン伯爵ジェイムズ・ブルースを司令官として兵士5,000からなる遠征軍を派遣した。同時にフランスの皇帝ナポレオン3世に共同出兵を求め、フランスはフランス人宣教師のオーギュスト・シャプドレーヌが逮捕され、斬首となったことを理由として出兵した。司令官はグロ男爵であった。

アメリカロシアは、戦争には加わらないものの条約改正には参加すると表明した。

1857年12月29日、英仏連合軍は広州を占領して葉名?を捕らえた。翌年2月にはイギリス、フランス、ロシア、アメリカの全権大使の連名により北京政府に対して条約改正交渉を求めた。しかし、これに対する清の返答に不満を持った連合軍は再び北上して天津を制圧し、ここで天津条約を結んだ。この条約の内容は公使の北京駐在・キリスト教布教の承認・内地河川の商船の航行の承認・英仏に対する賠償金などである。またこの条約による関税率改定により、アヘンの輸入が公認化された。条約締結を見た連合軍は引き上げた。しかし、連合軍が引き上げた後の北京では天津条約を非難する声が強くなり、この条約内容を変更しようと動いていた。

1859年6月17日、英仏の艦隊は天津条約の批准のために天津の南の白河口に来た。これに対する清の迎接は無く、また白河には遡行を妨げる障害物が配置されていた。これを取り除いている最中に大砲で清軍の攻撃を受けた英仏艦隊はモンゴル人将軍センゲリンチンの軍に敗れて上海へ引き返した。

1860年夏、英仏軍は大艦隊と約1万7千人の兵隊という大軍で再度進軍して清の砲台を占領し、清側との交渉に当たった。しかし、ここでパークスらが清国皇帝の指示によってセンゲリンチンに囚われ、使節団のうち11名が拷問の上で殺害されるという事件が起こったために決裂し、連合軍は北京に迫ったため、狼狽した咸豊帝熱河に避難した。
円明園の略奪と破壊「円明園」も参照略奪直前の円明園(1860年10月)英仏軍の円明園の略奪

10月7日、8日、英仏連合軍、ことに仏軍円明園で略奪を行った[注釈 1][注釈 2]エルギン伯は7日夕方、円明園から引き上げてすぐに、その有様を「今や廃墟。見た限り、略奪、粉砕が半分もされなかった部屋はひとつもない。仏軍は織物を引き裂き、工芸品を壊して回り、尚且つ略奪した。」等と記している。10月18日、19日、英軍は清朝による捕虜殺害に対する報復として円明園を焼き払った。この時、園内から殺害された使節団の遺体が回収されている。仏軍と英軍は、仏軍による略奪と英軍による焼き払いを、互いに非難し合った。
北京条約詳細は「北京条約」を参照

1860年、連合軍は北京を占領し、10・11月にロシア公使ニコライ・イグナチェフの調停の下に、英仏遠征軍司令官と恭親王との間に北京条約が締結された。この条約により清は、天津の開港、イギリスに対し九竜半島の割譲、中国人の海外への渡航許可などを認めさせられた。最後の渡航許可というのは中国人労働者を劣悪な条件で移民させる苦力貿易を公認するものである。この条項は労働者移民の公認と、それによる一定の移民保護を目的に入れられたとされる。

更に調停に入ったロシアに対しても、1858年にロシア帝国東シベリア総督ニコライ・ムラヴィヨフ=アムールスキーが締結したアイグン条約以後の2年間は清露両国の雑居地であった外満洲(現在の沿海州)を、正式に譲る事になった。特に、ロシアが沿海地方に軍港ウラジオストックを建設してロシア太平洋艦隊を常駐させ、シベリア鉄道建設によって大規模な兵の陸送を迅速化させようと計画したため、日露戦争の原因ともなった。その後もロシア革命時のシベリア出兵1919年)では極東共和国の帰属を巡って日露間で紛争地となった。
関連画像

八里橋の戦い

広東陥落後葉名?

天津条約の締結

フランス軍総司令官モントバンの指揮(1860年)

従軍したフランス兵に贈られた中国戦線従軍記念章Medaille_commemorative_de_l'expedition_de_Chine_

日本への影響

1856年の夏に、日米和親条約の規定に基づき、アメリカ合衆国の領事であるタウンゼント・ハリスが、伊豆の下田に着任した。ハリスは、日米修好通商条約の締結に当たって、アロー戦争とインド大反乱を引き合いにしつつ、イギリスが日本に出兵する可能性をほのめかして、江戸幕府に圧力をかけた。
脚注[脚注の使い方]
注釈^ 英軍は、士官に限り僅かに略奪に参加した。英軍士官は、英軍が設立した分捕委員会に、略奪品を納めた(競売にかけられ、123,000円の売上金は、軍に配分された)。
^ 『北京史話』によると、パリの図書館と大英博物館には、東晋顧ト之による『女史箴図』、清朝の沈源、唐岱による『円明園四十景図』などが所蔵されているという。

出典^ a b “アロー戦争とは”. コトバンク. 2022年3月12日閲覧。
^ 辞典

関連項目.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}ウィキメディア・コモンズには、アロー戦争に関連するメディアがあります。


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