アレン・ウェルシュ・ダレス
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1914年にプリンストン大学を卒業すると、アレンはインドで英語教員となるべくアラハバードに渡った[5]。しかし、アレンは仕事に満足することができず、翌1915年に帰国する。アレンは外交官になることを志望し、1916年国務省に入省した[6]。この背景には、叔父(母方の叔母の夫)であるロバート・ランシングが1915年に国務長官に就任したことも影響していた[6]。この決定は、聖職者になることを望んでいた父には失望を与えることになった。
外交官として

アレンの初任地は第一次世界大戦中のウィーンであった。国務長官のランシングはヨーロッパでの情報収集活動の強化を急いでおり、アレンに対しても合法的な諜報活動(インテリジェンス収集)を期待していた[7]。1917年4月にアメリカが第一次大戦に参戦すると、交戦相手国駐在の在外公館が閉鎖され、アレンはスイスベルンにある公使館に移り、外交官の日常活動と並行してインテリジェンス収集をおこなった[8]。休戦後のヨーロッパで、ロシア革命の影響を見たアレンは、ボリシェヴィキ勢力の拡大を警戒するレポートを本国に送っている[9]。この共産主義勢力に対して反発する姿勢は、その後もアレンの行動に一貫することとなり、反共主義右派思想を持ち続けた。

1918年にパリ講和会議のアメリカ代表団の一員となる。アレンの仕事は、ランシングが設置した「臨時政治・経済連絡局」のスタッフとして代表団内部や他国代表団との調整や連絡に当たる任務であった[10]。アレンはここで連絡局の上司だったジョセフ・グルーの知遇を得た。講和会議終了後の1920年初めには、アメリカがワイマール共和国に派遣した使節団の副団長としてベルリンに赴き、ドイツ人とのコネクションを築く。また、ドイツへの投資を望むアメリカの産業界の意を受けて訪独した兄ジョンにも協力した[11]。その後、4月に休暇を得て帰国し、10月に結婚する。アレンはいったん本省勤務となったが、自ら望んで12月にはトルコイスタンブールに赴任した。トルコ時代にはローザンヌ条約につながる会議をプロデュースした[12]。1922年、国務省中近東課長として本国に戻る。
国際弁護士から情報機関員へ

1926年北京の大使館勤務を突如命じられたことをきっかけに国務省を辞した[13]。国際法律事務所サリヴァン&クロムウェル(Sullivan & Cromwell)に所属し、経営者の一人でもあった兄ジョンからは以前より自分の事務所に来るよう誘われていたが、このときもそれを勧めたジョンに従ったのである[13]。法律事務所といっても、アレンは一般の訴訟を手がけたのではなかった。財閥企業のクライアントの意向に沿って政策をプロデュースするため、国務省とクライアントの橋渡しをすることが求められた任務であった[14]。アレンはロンドン海軍軍縮会議などの国際会議に法律顧問としてアメリカ代表団に随行した。ロンドン軍縮会議後はジョンの命により、ヤング案の締結や世界恐慌に伴うアメリカとヨーロッパの金融取引調整のため、約1年パリにとどまる[15]。このパリ駐在の間にアレンはヨーロッパの金融界とコネクションを築いた。

1940年OSS(Office of Strategic Services, 戦略事務局 CIAの前身)[16]に入局。


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