アレクセイ・コスイギン
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1968年プラハの春が起こるとコスイギンの政策に対する激しい批判が巻き起こり、8月には突如として首相辞任説が広まった[10]。これ以降、政治局内におけるブレジネフの地位の優勢が決定的になった。そして、1960年代を通して西側諸国との首席交渉者であったコスイギンだったが、ブレジネフが政治局内での地位を固め、また、アンドレイ・グロムイコ外相が自身の権限への干渉を嫌悪すると、東側諸国との外交以外では外交の場から姿を消すようになった。

中ソ対立の最中の1969年北ベトナムホー・チ・ミンの葬儀の帰りに立ち寄った北京国際空港中国周恩来首相と会談するが、この会談からは前向きな結論は得られず、中ソ両国は1969年から1970年にかけて軍事衝突を繰り返した。その一方で、ソ連と中国との全面戦争だけは望んでいなかったらしく、1974年9月17日に面会した創価学会会長(当時)の池田大作に対し、「ソ連は中国を攻撃するつもりも、孤立化させるつもりもありません」と語っている[11]

1970年代中期までにブレジネフは自身の権力基盤の確立に成功した。歴史家イリヤ・ゼムウォフによると、コスイギンは第24回党大会以降実権を失い始めたとされる。ブレジネフは政府機関に対する党の支配を強化することでコスイギンの立場のさらなる弱体化を図り、首相の権限の一部を最高会議に移譲したため、最高会議幹部会議長であるポドゴルヌイの地位が向上した。

1977年のいわゆる「ブレジネフ憲法」の制定にあたって、閣僚会議は最高会議に従属する機関と位置付けられ、ポドゴルヌイによる閣僚会議の統制が強まった。同年、ブレジネフがポドゴルヌイを失脚に追い込み、自らが最高会議幹部会議長のポストを兼任するようになるとコスイギンの権限は劇的に縮小された。このように1970年代にコスイギンの立場は徐々に弱まり、大きく影響力を失うこととなったが、時を同じくして頻繁に体調不良を起こすようになり、閣僚会議第一副議長(第一副首相)のマズロフが首相職を代行する機会が増加した。コスイギンは1976年に最初の心臓発作を起こして以降、活気と仕事に対する意欲を失ったように見受けられたという。さらにコスイギンの病気療養中の1978年にマズロフが退任するとブレジネフは自身の腹心であるニコライ・チーホノフを第一副首相に指名して閣僚会議の実権を掌握させた。1980年6月に行われた中央委員会総会では、本来ならば首相であるコスイギンが行うはずの経済開発計画に関する演説をチーホノフが行った。そして閣僚会議に決定権があるすべての事項について、コスイギンはブレジネフに伺いを立てることを余儀なくされた。
死去クレムリンの壁に葬られたコスイギン

1980年10月、コスイギンは持病の悪化によって入院し、辞表を提出した。その翌日、コスイギンはその政治生活で手にしたすべての地位と名誉、高級幹部としての待遇を失った。後任の首相には第一副首相のチーホノフが昇格したが、コスイギンに謝意を示さなかったことが政府官僚や一般市民から不審がられたため、党書記長・最高会議幹部会議長の名義でブレジネフがコスイギンの党・国家における活動への謝意を示す声明を発表する異例の事態となった[12]

1980年12月18日に死去。76歳没。他のソ連の指導者と同様、慣例に則って赤の広場で国葬が執り行われることとなったが、ブレジネフの誕生日の前日に亡くなったため、葬儀は3日間延期された。葬儀に際し、ブレジネフは「ソビエト国家の利益のために無欲無私に働いた」とコスイギンを”称賛”した。遺灰は国歌が演奏され、ブレジネフをはじめとする幹部らが敬礼する中、クレムリンの壁に葬られた。
ペプシコーラの導入

デタント期においては、アメリカ合衆国の消費物資導入を積極的に推し進めた。その代表例として挙げられるのが、ペプシコーラであろう。1974年には、南ロシアのノヴォロシースキィでペプシの工場が操業を開始した。それにより、ソ連時代からロシアでは「コーラ=ペプシ」であり、ペプシ社のコーラ市場シェアはロシアでは75パーセントを超えていた。しかし、ソ連崩壊後にはコカ・コーラが「西側の飲み物」として徐々に人気を集め、やがてそのシェアは変化した。詳細は「ソビエト連邦の食事情」を参照
脚注[脚注の使い方]
注釈^ ユリウス暦では2月8日。
^ 人民委員は大臣に相当する。

出典^ Law 1975, p. 214.
^ Law 1975, p. 221.
^ Андриянов, Виктор (2003年8月23日). “ ⇒Неизвестный Косыгин” (ロシア語). ロシア新聞. 2010年9月4日閲覧。
^ Вергасов, Фатех. “ ⇒Организация здорового накала” (ロシア語). pseudology.org. 2010年9月4日閲覧。
^ Society for Contemporary Studies (1979). The Contemporary. 23. R.N. Guha Thakurta for Contemporary Journals Ltd. p. 15. .mw-parser-output cite.citation{font-style:inherit;word-wrap:break-word}.mw-parser-output .citation q{quotes:"\"""\"""'""'"}.mw-parser-output .citation.cs-ja1 q,.mw-parser-output .citation.cs-ja2 q{quotes:"「""」""『""』"}.mw-parser-output .citation:target{background-color:rgba(0,127,255,0.133)}.mw-parser-output .id-lock-free a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-free a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/6/65/Lock-green.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .id-lock-limited a,.mw-parser-output .id-lock-registration a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-limited a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-registration a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/d/d6/Lock-gray-alt-2.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .id-lock-subscription a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-subscription a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/aa/Lock-red-alt-2.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .cs1-ws-icon a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/4/4c/Wikisource-logo.svg")right 0.1em center/12px no-repeat}.mw-parser-output .cs1-code{color:inherit;background:inherit;border:none;padding:inherit}.mw-parser-output .cs1-hidden-error{display:none;color:#d33}.mw-parser-output .cs1-visible-error{color:#d33}.mw-parser-output .cs1-maint{display:none;color:#3a3;margin-left:0.3em}.mw-parser-output .cs1-format{font-size:95%}.mw-parser-output .cs1-kern-left{padding-left:0.2em}.mw-parser-output .cs1-kern-right{padding-right:0.2em}.mw-parser-output .citation .mw-selflink{font-weight:inherit}ISBN 0141037970 
^ a b c d e Law 1975, p. 222.
^ Safire, William (1988). Before the fall: an inside view of the pre-Watergate White House. ペンシルベニア州立大学: ダ・カーポプレス. p. 610. ISBN 0141037970 
^ a b “ ⇒Алексей Николаевич Косыгин” (ロシア語). モスクワ州立紡績大学 (2010年11月27日). 2010年9月5日閲覧。
^ “ ⇒Алексей Гвишиани: ≪Не надо жалеть Косыгина!≫” (ロシア語). Pravda Online (2004年4月9日). 2010年9月4日閲覧。
^ “ニュース速報・字幕スーパー”. NHKクロニクル. 日本放送協会. 2021年10月26日閲覧。
^大白蓮華」2014年9月号p30
^ 木村明生「クレムリン 権力のドラマ」朝日選書、1985年、p256

関連項目.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}ウィキメディア・コモンズには、アレクセイ・コスイギンに関連するカテゴリがあります。


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