アレクサンドロス3世が大王と呼ばれるようになるのは、軍事指揮官として類を見ない成功を治めたことによる。たとえ数で圧倒的に凌駕されていようとも、一度も戦いにおいて負けることがなかった。これは地形とファランクス、騎兵戦術、大胆な戦略、そして部下の強い忠誠心を使ったことによる。6メートルの長さを持つ槍(サリッサ)で武装するマケドニアのファランクスは、ピリッポス2世による厳格な養成によって熟練させられ、アレクサンドロスはそのスピードと運動能力を最大限利用した。 紀元前327年に、オクシュアルテス(バクトリア王)の娘ロクサネと結婚し[13]、1男をもうけた。 紀元前324年2月にスサでペルシア王ダレイオス3世の娘スタテイラ2世、およびペルシア王アルタクセルクセス3世の娘パリュサティス2世
結婚と子女
アレクサンドロス4世(紀元前323年 - 紀元前309年) - アレクサンドロス大王の崩御後に生まれ、マケドニア王位を継承
側室のバルシネとの間に庶子(男子)を1人もうけた。 アレクサンドロスは征服地にその名に因んでアレクサンドリアと名付けた都市を建設、軍の拠点として現地支配の基礎に置いた。帝国の公用語に古代ギリシア語を採用した。さらにペルシャ文化への融合に心を配り、自らダレイオス3世の娘を娶りペルシア人と部下の集団結婚を奨励し(この集団結婚式においてマケドニア人の女とペルシア人の男が結婚する事例はなかった)、ペルシア風礼式や行政制度を取り入れ代官に現地有力者を任命した。 ギリシア文化とオリエント文化 純朴で質素な生活を営んでいたマケドニア人は苦難に耐える良い兵士であり、ギリシア南部の諸ポリスで伝統的であったファランクスの軽装化と盾の廃止による長槍の長大化、それに対応した編成に改良を加えたマケドニア軍は、当時の地中海世界において精強な軍隊であり、各々の将兵は軍務に誇りを持つ練達の兵士であった。また、アレクサンドロスは状況に応じて異なった兵種を組み合わせて即座に混成部隊を編成し、敵がどのような軍隊であっても柔軟に対応することができた。例えば、遊牧民スキタイとの戦いでは、敵のヒット・アンド・アウェイ戦法に対し、投槍騎兵と軽装歩兵の混成部隊を用いてこれを敗走させた。世界の歴史上軍事の指揮官において如何なる人間でもどのように過小評価しても、最大級の評価されるべきほどの戦術家でもあるアレクサンドロスに指揮されたマケドニア軍は、当時世界最強の軍隊であった。 戦術家としてだけではなく、アレクサンドロスは戦士としても有能であった。アレクサンドロス自ら行軍中にあっても荷馬車に乗り降りして体を鍛錬したと伝えられる。彼は常に最前線で将兵と共に戦い、自らの頭部や胸部に重傷を負うことさえあった[注釈 4]。数々の戦場で危機を乗り切ったアレクサンドロスは神懸かった戦士であり、将兵から絶大な人気を得ていた。 このようなマケドニア遠征軍に対しペルシア軍は大軍を動員したが、当時は利害が絡み合う各国傭兵による混成軍であったことから士気が低く、相互に連携した行動を取る修練も欠いていた。このため、継戦能力が乏しく、敗走を開始すると建て直しが困難であった。 アラビア語やペルシア語ではアレクサンドロスはイスカンダルの名前で知られる。アレクサンドロス3世の勇猛はイスラーム世界に一種の英雄伝説となって語り伝えられた。中東における伝承ではアレクサンドロスには2つの角があるとされ、イスカンダル双角王(イスカンダル・ズルカルナイン)の名で知られた。また、東南アジアにイスカンダルという男性名があるのは、イスラーム教の東進によってこの英雄伝説が広まった結果である。アレクサンドロス・ロマンスの広まった範囲は、ギリシア文化を受け継いだヨーロッパやイスラーム世界のみならず、断片的に中国やエチオピアにまで広がっている。生物が実る「もの言う木」に至ったイスカンダル。フェルドウスィーの『シャー・ナーメ』より(14世紀前半、イルハン朝) イスカンダル (波: اسكندر, Iskandar) は、古代マケドニア王国のアレクサンドロス大王を指すアラビア語・ペルシア語の人名である。 これらイスラーム世界でのイスカンダル像は、主に『偽カリステネスのアレクサンドロス物語
ヘラクレス(英語版)(紀元前327年頃 - 紀元前309年)
融合政策
ヘレニズムアレクサンドロスとダレイオス3世の家族詳細は「ヘレニズム」を参照
マケドニア軍の強さ
兵站と進軍
父王ピリッポス2世は、アテナイの軍人クセノポンからヒントを得て歴史的に初の戦場への馬車と牛車と家族の帯同を禁止し、歩兵と騎馬に荷(長槍、食料、道具、調理器具、毛布、建築資材、医薬品など40kg以上)を負わせることで、余計な足枷と負担を無くし迅速で機動的な戦力の展開を行えるようにした。アレクサンドロスも地形の問題や負傷兵が多い場合を除き、父王の戦略を踏襲している。食料は、小麦、大麦、キビなどの乾燥穀物をパンや粥として食べた。そのほかには、干肉、ナツメヤシやイチジクなどのドライフルーツ、現地調達の肉や貝、果物などである。進軍では、偵察から得た情報をもとに食料の多い地域を優先し軍隊の規模を維持していた。しかし、砂漠の多いペルシャでは、水が貴重なため水源から水源へ移動を行った[14]。
イスカンダル伝承詳細は「アレクサンドロス・ロマンス」を参照
文学ではフェルドウスィーやニザーミーといった著名な作家たちが韻文や散文による『イスカンダル・ナーマ』(アレクサンドロスの書)を著している。これらの作品ではイスカンダルとアリストテレスが理想的な「君主と宰相」像として描かれている。
また、アレクサンドロスに由来する中東の都市名は、それぞれアレクサンドリアはアル・イスカンダリーヤ、アレクサンドレッタはイスカンダルーン(トルコ語ではイスケンデルン)と呼ばれる。
イスラム教の東進に伴い、東南アジアでも一般的な男性名となっている。マラヤ年代記には、アレクサンドロス大王のインドでの子孫であるラジャ・スラン(11世紀南インド・チョーラ朝のラージェーンドラ1世と考えられる)が、ペラ近郊、ジョホールといった現代のマレーシアの領域に侵攻したとの記述がある[15]。歴史上でもマラッカ国王イスカンダル・シャー(在位1414年-1424年)、 アチェ国王イスカンダル・ムダ(在位:1607年-1636年)らがいる。シンガポール近くのジョホールバル南部開発地区の名前であるイスカンダル・マレーシア(英語版)は開発開始当時のジョホールのスルタン(英語版) イスカンダル・イブニ・スルタン・イスマイル(英語版)の名前に因んでいる。 この節は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方)
逸話、エピソード
出典検索?: "アレクサンドロス3世"
愛馬ブケパロスに騎乗したアレクサンドロス(拡大図)
ブケパロス
王子時代にブケパロスという馬がペラの王宮に連れてこられた。気性が荒々しく誰も乗りこなすことができなかったが、アレクサンドロスはブケパロスが自分の影に怯えているのに気付き、馬の向きを変えて見事に乗りこなした。それを見た父のピリッポス2世は満足と恐れを同時に抱き、「そなたは自分の王国を探すがよい」と言ったという[16]。