翌年、ダレイオス3世が王族で側近であったベッソスによって暗殺されると、アレクサンドロスはダレイオスの遺骸を丁重に葬った。ダレイオスの死後も、ベッソスはペルシア国王アルタクセルクセスを自称して抗戦を続けたため、アレクサンドロスはベッソスの不義不忠を糾弾してこれを攻めた。ベッソスは、スピタメネスとオクシュアルテスに捕えられた後アレクサンドロスに引き渡され、エクバタナで公開処刑された。
ソグディアナ方面の占領前331年 - 前323年詳細は「キュロポリス包囲戦」、「ヤクサルテス川の戦い」、「スピタメネス」、および「ソグディアナ攻防戦」を参照
中央アジア方面へ侵攻したアレクサンドロスは、再び反乱を起こしたスピタメネスを中心とするソグド人による激しい抵抗に直面した。マケドニア軍は紀元前329年から紀元前327年までソグディアナとバクトリアにおける過酷なゲリラ戦(ソグディアナ攻防戦)を強いられ、将兵の士気の低下を招いた。好戦的な遊牧民であるスキタイ人も攻撃を仕掛けてきたが、アレクサンドロス大王やその部下であるクラテロスは遊牧民の騎兵にも勝利を収め、遊牧民の王が「アレクサンドロス大王の命令は何でも受け入れるので、どうかお許しください」と懇願するほどであった。また、クレイトス殺害事件や近習による陰謀事件など、アレクサンドロスと部下たちの間に隙間が生じ始めるのもこの頃である。なおソグディアナ攻防戦後にアレクサンドロスは紀元前328年に帰順したこの地方の有力者、オクシュアルテスの娘ロクサネを妃とした。
インド遠征とスーサ帰還アレクサンドロスのインド行軍路(赤線)詳細は「コフェン戦争(英語版)」、「アオルノス」、「ヒュダスペス河畔の戦い」、および「マッロイ戦役」を参照
ペルシア王国を征服したアレクサンドロスは次にインドへの遠征を開始した。紀元前328年に「鉄の門」を越え[7]、スワート渓谷(英語版)でコフェン戦争(英語版)(紀元前327年 - 紀元前326年)。アオルノス(古代ギリシア語: ?ορνο?、英語: Pir-Sal、現ピール・サル峰、紀元前327年 - 紀元前326年)にてアレクサンドロスは生涯最後の包囲戦を行い、これを破った。紀元前326年にインダス川を越えてパンジャブ地方に侵入し、5月にヒュダスペス河畔の戦いでパウラヴァ族の王ポロスを破った。その後も周辺の諸部族を平定しながら進軍し、インドにおいて最も勇猛なカタイオイ人も制圧した。更にインド中央部に向かおうとしたが、部下が疲労を理由にこれ以上の進軍を拒否したため、やむなく兵を返すことにした。
11月からアレクサンドロスはヒュドラオテス川(現ラーヴィー川(英語版))を南下し、全軍を3つに分割してクラテロスと共に残存する敵対勢力(ジャート族系のマッロイ人)を駆逐し(マッロイ戦役)、さらにインダス川を南下してパタラ(現タッター)に出た。ゲドロシア(英語版)砂漠(現パキスタンバローチスターン州)を通ってカルマニア(英語版)(現イランケルマーン州)に向かい、紀元前324年にスーサに帰還した。この際、部下のネアルコスに命じてインダスからペルシア湾を通ってユーフラテス川の河口までの航海を命じた。この探検航海によりこの地方の地理が明らかになると同時に、ネアルコスの残した資料は後世散逸したもののストラボンなどに引用され、貴重な記録となっている。紀元前324年にはスーサの合同結婚式(英語版)が行なわれた。 還幸したアレクサンドロスは、メソポタミアのバビロンにおいて帝国をペルシア、マケドニア、ギリシア(コリントス同盟)の3地域に再編し、アレクサンドロスによる同君連合の形をとることにした。また、広大な帝国を円滑に治めるためペルシア人を積極的に登用するなど、ペルシア人とマケドニア人の融和を進めた。この過程においてアレクサンドロスはペルシア帝国の後継者を宣し、ペルシア王の王衣を身にまといペルシア風の平伏礼などの儀礼や統治を導入していったため、自身の専制君主化とマケドニア人の反発を招いた。 バビロンに戻ったアレクサンドロスはアラビア遠征 アレクサンドロスの死因は毒殺説、熱病(マラリア)説、祝宴中にてんかん発作により突然倒れたという説もある。精神医ロンブローゾはプルタルコスを引用して、「ヘラクレスの大盃を十数杯飲みほして死んだ」と伝え、酒の飲み過ぎという説を唱えるものもいる[8]。 アレクサンドロス3世の高熱という症状やインドからの還幸での崩御という地理的要素から死因はマラリアとも考えられてきたが、2003年に死因は西ナイルウイルスによるウエストナイル脳炎という学説が登場した[9]。その根拠は、古代のバビロンが現代の西ナイルウイルスの流行する分布域に属していることのほか、1世紀から2世紀にかけて活躍したギリシア人著述家プルタルコスの『対比列伝』(「プルターク英雄伝」)[10]のなかの以下のような記述である。 アレクサンドロスがバビュローンに入ろうとしている時に、(中略) 城壁のところまで行くと、多くのカラスが喧嘩をして互いにつつきあい、その内幾羽かが大王の足元に落ちた。 公的な記録によれば、アレクサンドロス大王は高熱を発してずっと熱が下がらず、そのあいだ激しくのどが渇いて葡萄酒を飲み、うわごとがはじまって、発熱後10日目に崩御したといわれる。これらの症状は、ウエストナイル熱やウエストナイル脳炎の症状と矛盾しない[11]。 東方遠征中、酒に毒が盛られているのにアレクサンドロスが気付いたことにより、若手将校らによるアレクサンドロス暗殺計画が発覚したとされるが、記録によって事態経過の記述が全くバラバラかつ曖昧である。首謀者の1人として司令官の1人フィロタスの名前が挙がった。フィロタスは無実を主張するが、彼の義兄弟らが拷問の末に自白したため、有罪の判決が下りフィロタスは処刑された。パルメニオンを筆頭とする旧臣とアレクサンドロスの亀裂により近衛兵を率いるフィロタスの粛清劇を招いたという説が有力である。 アレクサンドロスの崩御後、異母兄で精神疾患のあったピリッポス3世と、アレクサンドロスの崩御後に生まれた息子アレクサンドロス4世が共同統治者となったものの、後継の座を巡って配下の武将らの間でディアドコイ戦争が勃発した。ピリッポス3世は紀元前317年に、アレクサンドロス4世は紀元前309年に暗殺され、アレクサンドロスの帝国はディアドコイらにより分割・統治されることとなった(プトレマイオス朝エジプト、セレウコス朝シリア、アンティゴノス朝マケドニア)。
バビロン還幸と大王崩御
死因
感染症説
暗殺説
崩御後
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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