アレクサンドロス3世
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それを見た父のピリッポス2世は満足と恐れを同時に抱き、「そなたは自分の王国を探すがよい」と言ったという[16]
決して負けない人
アレクサンドロスはアジアへの遠征に先立って神託を求めて神託所に行った。そのとき神託所は休業日だったが、アレクサンドロスは強引に神託を求め続けた。うんざりした巫女が「あなたは決して負けない人だ」とこぼすと、彼は満足して立ち去った[17]
ディオゲネス
コリントスシノペのディオゲネスという賢者がおり、いつも裸で樽に暮らし、質素な生活を送っていた[注釈 5]。本人はその哲学思想もあって、犬のような生活を送りながらも人生に至極満足していた。コリントスに滞在していたアレクサンドロス大王の下にはたくさんの人が集まっていた。博識なアレクサンドロス大王は、その中に賢者であるディオゲネスが居ることを望んだが彼だけが大王の前に現れなかった。アレクサンドロス大王は自らディオゲネスに会いに行くことにした。クラネイオンに行くと、そこにはひなたぼっこを楽しんでいたディオゲネスの姿があった。「余が大王であるアレクサンドロスである。」と名乗ると、「わしが犬である、ディオゲネスである。」と応えた。アレクサンドロスは彼に「何なりと望みのものを申してみよ!」と問うたが、答えは「どうか、私を日陰におかないでいただきたい。」というものだった。それの様を見たアレクサンドロスは「お前は余が恐ろしくないのか?」と問うとディオゲネスは「いったいお前は何者だ?善人か?悪人か?」と問う。アレクサンドロスは「むろん、善人である!」と返すと、「それなら、誰が善人を恐れようか?」と返した。帰路にてアレクサンドロスは「もし私がアレクサンドロスでなかったら、私はディオゲネスになりたい」と語ったという[18]。確かに、晩年のディオゲネスはコリントスで生活をしていた。シノペからアテナイへ移ったあと、奴隷として売り飛ばされコリントスのクセニアデスに買われた為である。この時期で、アレキサンドロスとディオゲネスが会う機会は、東方遠征前に立ち寄ったこの時期しかありえない。よって、実際に会う機会が存在したことは事実である。アレキサンドロスとディオゲネスのエピソードはディオゲネス・ラエルティオス著の『哲学者列伝』収録のものとプルタルコスが伝えるものが残っている。しかし、ディオゲネスとアレキサンドロス双方の思想らしからぬエピソード。デフォルメされた性格。および、当時のマケドニア批判の風潮。他のマケドニア人とディオゲネスの逸話における多くの矛盾から、マケドニア批判の一例として後世に創作されたものではないかという声もある[19]。もし創作であった場合、ディオゲネスの提唱した「世界市民(コスモポリテース)」とアレキサンドロスのその後の遠征や統治の類似性から着想を得たものではないかと考えられる。
アキレウスへの情熱
アレクサンドロスはイリアスの英雄アキレウスに心酔していた。東方遠征で小アジアに渡った際には、本隊を離れてわざわざトロイへと赴き、アキレウスの墓に花冠を捧げた[20]。更に、そこにあるアテーナー神殿に自らの武具一式を奉納し、代わりにトロイ戦争時から伝わる武具を貰い受けたという。トロイで受け取った聖なる盾をアレクサンドロスは常に持ち歩き、戦闘の際にはそれを盾持ちにもたせて自分の前方を進ませた[21]
ヘーラクレースへの挑戦
アレクサンドロスは、自らがギリシア神話最大の英雄ヘーラクレースの子孫だと信じて疑わなかった。インド北部に侵攻した際には、ヘーラクレースですら落とせなかったとされる難攻不落のアオルノスという岩山を陥落させた。しかし、これはアレクサンドロス大王のご機嫌を取るための浮説であり、現地にそういう伝承は存在しなかったとされる[注釈 6]
毒殺を恐れない
アレクサンドロスが病臥していたとき、侍医のフィリッポスが敵(ダレイオス3世)に買収されて王の毒殺を企てているという報せが届いた。王はその手紙を読んだが、平然として薬を飲み干し、フィリッポスに手紙を見せた。フィリッポスは「今後も、医者としての私の指示に従うようにしてください。そうすれば助かります。」と言ったといわれる。その後、王は激しい高熱に苦しんだが、やがて回復した[23]
貴婦人への礼遇
ダレイオス3世の母と妃がイッソスの戦いの後で捕えられたが、アレクサンドロスは彼女らに非常に敬意を払って接した。のちにそれを伝え聞いたダレイオス3世はアレクサンドロスの度量を賞賛し、もし自分が不幸にして王国を失うとしたら、アレクサンドロスこそが新たな王となるように神に祈ったという。
「勝利を盗まない」
ガウガメラの戦いの前夜に宿将パルメニオンが夜襲を進言したが、アレクサンドロスは「私は勝利を盗まない」と言って退けた。ペルシア軍は劣勢のマケドニア軍が確実に夜襲を仕掛けてくるものと予想して一晩中厳重に警戒していたが、アレクサンドロスは翌朝遅くまで悠々と寝続けた。ペルシア軍は無駄に体力を消耗し、マケドニア軍は気力充実して戦闘に臨むことができた。
クレイトスの殺害
アレクサンドロスはペルシア王国を征服した後、東方文化を積極的に導入し、マケドニアの古参将兵の反発を招いた。ある夜の酒宴でアレクサンドロスは武将クレイトスと東方政策をめぐって激しく口論し、衝動的にクレイトスを刺し殺してしまう。まもなく酔いが醒めた王は深く嘆いたという[24]
砂漠の水
インド遠征からの帰路、アレクサンドロスの本隊は不毛なゲドロシア(英語版)の砂漠を行軍してペルシア本国へ向かった。兵士たちが飢えと渇きに苦しんで倒れていく中、1人の兵士が王のために1杯の水を見つけてきた。しかしアレクサンドロスは「私は皆と共に渇きに苦しむ方を選ぶ」といって水を捨てた。
部下への感情
アイリアノスは『ギリシア奇談集』において「アレクサンドロスは軍人らしいという理由でペルディッカスを、軍の統率において優れているという理由でリュシマコスを、勇敢だという理由でセレウコスを憎んでいた。アンティゴノスの気前のよさ、アッタロスの品行、プトレマイオスの幸運さは彼の癪に障るものであった」(アイリアノス, XII, 16.なお、引用は ⇒[1] より)と述べており、アレクサンドロスの優秀な部下に対する思いは複雑なものであったともされる。逆にアレクサンドロスがヘファイスティオンを寵愛していたのは、彼がとりたてて将軍として抜きん出たところのない人物だったからだともいう。
性的嗜好
男色家であったという説もある[25]
思慮深さ
早まって過ちを犯さないよう、何かする時には30秒考えてから実行に移したという[26]
伝説

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出典検索?: "アレクサンドロス3世" ? ニュース ・ 書籍 ・ スカラー ・ CiNii ・ J-STAGE ・ NDL ・ dlib.jp ・ ジャパンサーチ ・ TWL(2012年6月)
16世紀のイスラム美術、ガラス製の潜水鐘で水中探索するアレクサンドロス3世
ゴルディアスの結び目
詳細は「ゴルディアスの結び目」を参照アレクサンドロスがペルシア領であるリュディアの州都ゴルディオンを占領した時(紀元前333年)、町の中心にあるゼウス神殿に一台の古い戦車が祀られていた。その戦車は“ゴルディオスの結び目”と言われる複雑に絡み合った縄で結わえられており、「この結び目を解いたものがアジアの支配者になる」という伝説が伝えられていた。その伝説を耳にしたアレクサンドロスは腰の剣を振り上げ、一刀のもとに結び目を切断し、「運命とは伝説によってもたらされるものではなく、自らの剣によって切り拓くものである」と兵たちに宣言した。
海賊と帝王
海賊が捕えられて縛り首になったが、彼はアレクサンドロスに向かって「俺もお前のように多くの国を攻め滅ぼしていれば、英雄と呼ばれたことだろう」と皮肉った。
海中探検
オリエントの伝説によると、アレクサンドロスは海の中の世界に興味をおぼえ、ガラスの樽の中に入って海中を探検したという。
サンドロコットスとの出会い
プルタルコスなどによれば、アレクサンドロスがインドに侵入した時、マケドニアの陣営に1人の若者が訪れてインド東部への道案内を申し出た。この若者の名はサンドロコットスといい、彼こそがのちのチャンドラグプタであるという。
インドの賢者
アレクサンドロスはインドで裸の賢者たちと世界の神秘についての対話を交わした。賢者たちはアレクサンドロスの問いに次々と答えたが、王は必ずしも納得しなかった。賢者の1人はなめした皮の上に乗り、皮の端に立つと他方の端が捲れるが中心に立つと安定することを示して、栄光を求めて世界をさまよう王を諷した。
身体的特徴
アレクサンドロス3世は虹彩異色症(オッドアイ)だった[27][28]
トランプの4人の王の1人
フランスでは、トランプクラブのキングのモデルとされている[要出典]。
アレクサンドロスと関わった人々
部下たち(50音順)



アサンドロス

アリストブロス

アリダイオス

アルケタス

アルコン

アンティゲネス

アンティゴノス

アンティパトロス


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