アレクサンドロス3世
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紀元前328年に「鉄の門」を越え[7]、スワート渓谷(英語版)でコフェン戦争(英語版)(紀元前327年 - 紀元前326年)。アオルノス古代ギリシア語: ?ορνο?、英語: Pir-Sal、現ピール・サル峰、紀元前327年 - 紀元前326年)にてアレクサンドロスは生涯最後の包囲戦を行い、これを破った。紀元前326年インダス川を越えてパンジャブ地方に侵入し、5月にヒュダスペス河畔の戦いパウラヴァ族の王ポロスを破った。その後も周辺の諸部族を平定しながら進軍し、インドにおいて最も勇猛なカタイオイ人も制圧した。更にインド中央部に向かおうとしたが、部下が疲労を理由にこれ以上の進軍を拒否したため、やむなく兵を返すことにした。

11月からアレクサンドロスはヒュドラオテス川(現ラーヴィー川(英語版))を南下し、全軍を3つに分割してクラテロスと共に残存する敵対勢力(ジャート族系のマッロイ人)を駆逐し(マッロイ戦役)、さらにインダス川を南下してパタラ(現タッター)に出た。ゲドロシア(英語版)砂漠(現パキスタンバローチスターン州)を通ってカルマニア(英語版)(現イランケルマーン州)に向かい、紀元前324年スーサに帰還した。この際、部下のネアルコスに命じてインダスからペルシア湾を通ってユーフラテス川の河口までの航海を命じた。この探検航海によりこの地方の地理が明らかになると同時に、ネアルコスの残した資料は後世散逸したもののストラボンなどに引用され、貴重な記録となっている。紀元前324年にはスーサの合同結婚式(英語版)が行なわれた。
バビロン還幸と大王崩御

還幸したアレクサンドロスは、メソポタミアバビロンにおいて帝国をペルシア、マケドニア、ギリシア(コリントス同盟)の3地域に再編し、アレクサンドロスによる同君連合の形をとることにした。また、広大な帝国を円滑に治めるためペルシア人を積極的に登用するなど、ペルシア人とマケドニア人の融和を進めた。この過程においてアレクサンドロスはペルシア帝国の後継者を宣し、ペルシア王の王衣を身にまといペルシア風の平伏礼などの儀礼や統治を導入していったため、自身の専制君主化とマケドニア人の反発を招いた。

バビロンに戻ったアレクサンドロスはアラビア遠征を計画していたが、に刺され、ある夜の祝宴中に倒れた。10日間高熱に浮かされ「最強の者が帝国を継承せよ」と遺言し、紀元前323年6月10日、32歳の若さで崩御した。
死因

アレクサンドロスの死因は毒殺説、熱病(マラリア)説、祝宴中にてんかん発作により突然倒れたという説もある。精神医ロンブローゾプルタルコスを引用して、「ヘラクレスの大盃を十数杯飲みほして死んだ」と伝え、酒の飲み過ぎという説を唱えるものもいる[8]
感染症説

アレクサンドロス3世の高熱という症状やインドからの還幸での崩御という地理的要素から死因はマラリアとも考えられてきたが、2003年に死因は西ナイルウイルスによるウエストナイル脳炎という学説が登場した[9]。その根拠は、古代のバビロンが現代の西ナイルウイルスの流行する分布域に属していることのほか、1世紀から2世紀にかけて活躍したギリシア人著述家プルタルコスの『対比列伝』(「プルターク英雄伝」)[10]のなかの以下のような記述である。

アレクサンドロスがバビュローンに入ろうとしている時に、(中略) 城壁のところまで行くと、多くのカラスが喧嘩をして互いにつつきあい、その内幾羽かが大王の足元に落ちた。

公的な記録によれば、アレクサンドロス大王は高熱を発してずっと熱が下がらず、そのあいだ激しくのどが渇いて葡萄酒を飲み、うわごとがはじまって、発熱後10日目に崩御したといわれる。これらの症状は、ウエストナイル熱やウエストナイル脳炎の症状と矛盾しない[11]
暗殺説

東方遠征中、酒にが盛られているのにアレクサンドロスが気付いたことにより、若手将校らによるアレクサンドロス暗殺計画が発覚したとされるが、記録によって事態経過の記述が全くバラバラかつ曖昧である。首謀者の1人として司令官の1人フィロタスの名前が挙がった。フィロタスは無実を主張するが、彼の義兄弟らが拷問の末に自白したため、有罪の判決が下りフィロタスは処刑された。パルメニオンを筆頭とする旧臣とアレクサンドロスの亀裂により近衛兵を率いるフィロタスの粛清劇を招いたという説が有力である。
崩御後

アレクサンドロスの崩御後、異母兄で精神疾患のあったピリッポス3世と、アレクサンドロスの崩御後に生まれた息子アレクサンドロス4世が共同統治者となったものの、後継の座を巡って配下の武将らの間でディアドコイ戦争が勃発した。ピリッポス3世は紀元前317年に、アレクサンドロス4世紀元前309年に暗殺され、アレクサンドロスの帝国はディアドコイらにより分割・統治されることとなった(プトレマイオス朝エジプトセレウコス朝シリアアンティゴノス朝マケドニア)。

アレクサンドロスの死と当時の社会情勢により民衆に不安が広がり、インフレーションが発生した。これが記録が残る最古のインフレーションである[12]
人物
指揮能力

アレクサンドロス3世が大王と呼ばれるようになるのは、軍事指揮官として類を見ない成功を治めたことによる。たとえ数で圧倒的に凌駕されていようとも、一度も戦いにおいて負けることがなかった。これは地形とファランクス、騎兵戦術、大胆な戦略、そして部下の強い忠誠心を使ったことによる。6メートルの長さを持つ槍(サリッサ)で武装するマケドニアのファランクスは、ピリッポス2世による厳格な養成によって熟練させられ、アレクサンドロスはそのスピードと運動能力を最大限利用した。
結婚と子女

紀元前327年に、オクシュアルテスバクトリア王)の娘ロクサネと結婚し[13]、1男をもうけた。

アレクサンドロス4世(紀元前323年 - 紀元前309年) - アレクサンドロス大王の崩御後に生まれ、マケドニア王位を継承

紀元前324年2月にスサでペルシア王ダレイオス3世の娘スタテイラ2世、およびペルシア王アルタクセルクセス3世の娘パリュサティス2世(英語版)と結婚した[13]

側室のバルシネとの間に庶子(男子)を1人もうけた。

ヘラクレス(英語版)(紀元前327年頃 - 紀元前309年)

融合政策

アレクサンドロスは征服地にその名に因んでアレクサンドリアと名付けた都市を建設、軍の拠点として現地支配の基礎に置いた。帝国の公用語に古代ギリシア語を採用した。さらにペルシャ文化への融合に心を配り、自らダレイオス3世の娘を娶りペルシア人と部下の集団結婚を奨励し(この集団結婚式においてマケドニア人の女とペルシア人の男が結婚する事例はなかった)、ペルシア風礼式や行政制度を取り入れ代官に現地有力者を任命した。
ヘレニズムアレクサンドロスとダレイオス3世の家族詳細は「ヘレニズム」を参照

ギリシア文化とオリエント文化が融合したヘレニズム文化はアレクサンドロスの帝国とその後継王朝へ根付き、ラオコオンミロのヴィーナスサモトラケのニケ、瀕死のガリア人などの彫刻が各地で制作された。


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