アレクサンドロス3世
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ハンニバル[注釈 1]ガイウス・ユリウス・カエサル[注釈 2]ナポレオン[注釈 3]などの著名な歴史上の人物たちから大英雄とみなされていた。旧約聖書コーランゾロアスター教シャー・ナーメなど多様な民族の文献にも登場する。現代でもアレクサンドロスの名に因んだ名前をつける人は多い。1941年からギリシャで発行されていた旧1000ドラクマ紙幣や旧100ドラクマ硬貨、1926年からアルバニアで発行された旧1レク紙幣などの肖像に使用されていた。
生涯
若年期アリストテレスの講義を受けるアレクサンドロス

アレクサンドロス3世はピリッポス2世エペイロス王女オリュンピアスの間に生まれた。ピリッポス2世はヘーラクレースを祖とする家系で、オリュンピアスはアキレウスを祖とする家系であったから、ギリシア世界で最大の栄光を持つ両英雄の血筋を引くと考えられ、家系的栄誉はギリシア随一であった。

紀元前342年、ピリッポスはアテナイからマケドニア人の学者アリストテレスを「家庭教師」として招く。アリストテレスは都ペラから離れた「ミエザの学園」で、紀元前340年までアレクサンドロスとその学友を教えた。アレクサンドロスは「ピリッポス2世から生を受けたが、高貴に生きることはアリストテレスから学んだ」という言葉を残すほどに、アリストテレスを最高の師として尊敬するようになる。また、彼と共にギリシアの基礎的な教養を身につけた「学友」たちは、後に大王を支える将軍となった。

東征中、アレクサンドロスの要請でアリストテレスは『王道論』と『植民論』を書き送ったといわれる。アレクサンドロスも、各国から動物や植物を送り、アリストテレスはそれらを観察し、研究を続けた[1]。アリストテレスとの交流はこうして、アレクサンドロスの死まで続いた。
ギリシア南部出兵・即位詳細は「アレクサンドロス大王のバルカン遠征(英語版)」、「ペリウム包囲戦(英語版)」、および「テーバイの戦い(英語版)」を参照

紀元前338年、アレクサンドロスは一軍の将として父に従ってギリシアの南部に出兵しカイロネイアの戦いアテナイテーバイ連合軍を破る。これが彼の初陣であったが、このときアレクサンドロスは精鋭の騎兵を率いてアテナイ・テーバイ軍を壊乱させ、マケドニアの勝利に大きく貢献した。父ピリッポス2世はこれによってギリシア諸ポリスにコリントス同盟(ヘラス同盟)を締結させ全ギリシアの覇権を握ると、続いてペルシアへの東征を計画したが、紀元前336年に護衛のパウサニアス(英語版)に暗殺された。

20歳の若さでマケドニア王を継承したアレクサンドロスは、敵対者を排除してマケドニアを掌握すると、トラキア人と戦うためにイストロス川方面に遠征して成功をおさめ、その隙に反旗を翻したテーバイを破壊し[2]、父王暗殺後に混乱に陥っていた全ギリシアに再び覇を唱えた。ギリシアの諸ポリスを制圧したアレクサンドロスは、マケドニア本国の押さえを重臣アンティパトロスに任せた。
東方遠征詳細は「アレクサンドロス大王の戦争(英語版)」および「アレクサンドロス東征記」を参照
小アジアの征服前334年イッソスの戦い, 左がアレクサンドロス, 右がダレイオス3世前333年「グラニコス川の戦い」、「ミレトス包囲戦(英語版)」、「ハリカルナッソス包囲戦(英語版)」、および「イッソスの戦い」も参照

紀元前335年、父の遺志を継いでマケドニア軍を率いてペルシア東征に出発し、小アジアに渡ったマケドニア軍38,000はグラニコス川の戦いで小アジア太守の連合軍4万と対峙した。この時、派手な甲冑を身に纏ったアレクサンドロスは騎兵の先頭に立ち、自ら馬を駆って突進すると敵将ミトリダテスを投げ槍でしとめた。この印象的で鮮やかな勝利によって、アレクサンドロスは味方将兵の信頼を得ると共に敵に対しては計り知れない恐怖心を与えることになった。カリスマ性を帯びたアレクサンドロスに率いられるマケドニア軍は、小アジアに駐屯するペルシア軍を蹴散らしながら東進を続けて行く。

紀元前333年、ついにアレクサンドロスはアンティオキアの北西イッソス(英語版)においてダレイオス3世自らが率いるペルシア軍10万と遭遇する(イッソスの戦い)。アレクサンドロスは騎兵と近衛兵、徴募兵を縦横無尽に指揮してペルシア軍を敗走させ、ダレイオスの母・妻・娘を捕虜にした。このときペルシアから和睦の申し出を受けるが、これを拒否しさらに進軍を続ける。
エジプトの征服前332年 - 前331年「ティール包囲戦」および「ガザ包囲戦」も参照

アレクサンドロスは、シリアにおいては反ペルシアの都市が比較的多かったため歓迎されたが、頑強に抵抗したフェニキアのティール(Tyre、現ティルス)とガザを屈服させると、さらに南下してエジプトに侵入した。

エジプトは11年前の紀元前343年アルタクセルクセス3世によって征服されたばかりであり、ペルシアの統治が根付いていなかったために占領は容易であった。紀元前332年、エジプト人に解放者として迎え入れられたアレクサンドロスはファラオとして認められ、「メリアムン・セテプエンラー」というファラオ名を得て、アメン神殿にその像を祭られた。彼は少数の部隊を率いて西部砂漠のシワ・オアシスにあるアメンの聖地に行き、ここで自らをアメンの子とする神託を得た。アメンはギリシア神話のゼウスと同一視されており、これはアレクサンドロス大王はゼウスの子であるという神託に等しかった。また、その後ナイルデルタの西端に都市を建設したが、これが現在のアレキサンドリアの起源である。

エジプトの地で将兵に充分な休養と補給を施したアレクサンドロスはペルシア王国への遠征を再開する。
ペルシア王国の滅亡詳細は「ガウガメラの戦い」、「ウクシオンの戦い」、および「ペルシス門の戦い」を参照

紀元前331年、アレクサンドロス軍47,000は、チグリス川上流のガウガメラで20万とも30万ともいわれたダレイオス3世指揮下のペルシア軍を破った(ガウガメラの戦い)。ダレイオスがカスピ海東岸に逃れると、ペルシャ王国はもはや風前の灯火となった。ペルシア王国の中枢に乱入したマケドニア軍は、バビロンスーサの主要都市を略奪した。スーサからペルセポリスに向かう途中、ウクシオンという部族の居住する地域を通る時に貢物を要求されたので、ウクシオンの戦いが生じ、これを破った。その後ペルシス門の戦いでアリオバルザネスの伏兵を破ると、ペルセポリスに入城した。ペルセポリスでは一般民衆に対しても凄惨な虐殺強姦が繰り広げられたうえ徹底的に破壊して焼き払った。ペルセポリスの破壊は遠征に同行していたヘタイラタイスの進言によるものであったという[3][4]。ペルセポリスの徹底した破壊は、ペルシア戦争時にペルシアがアテナイのアクロポリスを焼き払ったことへの復讐の意味もあった[5][6]。ペルシアの中枢を占領した後も、アレクサンドロス軍はダレイオスを追って進軍を続けた。

翌年、ダレイオス3世が王族で側近であったベッソスによって暗殺されると、アレクサンドロスはダレイオスの遺骸を丁重に葬った。ダレイオスの死後も、ベッソスはペルシア国王アルタクセルクセスを自称して抗戦を続けたため、アレクサンドロスはベッソスの不義不忠を糾弾してこれを攻めた。ベッソスは、スピタメネスオクシュアルテスに捕えられた後アレクサンドロスに引き渡され、エクバタナで公開処刑された。


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