アレクサンドル1世_(ロシア皇帝)
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7歳から11年間家庭教師として彼に教育を施したのは、スイス人のジャコバン主義者であったフレデリック・セザール・ド・ラ・アルプ[2]であった。ルソーに心酔し、根っからの共和主義者であったラ・アルプの影響によってアレクサンドルは自由主義的傾向を強く持つようになったが、ラ・アルプによる教育は結婚によって中断され、中途半端な理想論を持たせるだけに終わった。

ラ・アルプと並び、傅育官としての礼法と健康を担当した軍人ニコライ・サルトゥイコフ(ru)大佐からは、ロシアの伝統的な皇帝(ツァーリ)専制の原則を叩き込まれた。若い頃のアレクサンドルはフランス革命ポーランドの反乱に同情的であったが、サルトゥイコフによって、毎週金曜日に父パーヴェルの住むガッチナに赴き、閲兵式に臨席し、自ら中隊を指揮した。パーヴェル1世の即位後は、以前の人類愛に対する共感は蔭を潜め、冷笑的かつ曖昧な態度を身につけた。
帝位継承

1793年、アレクサンドルはバーデン大公女ルイーズ(結婚後はエリザヴェータ・アレクセーエヴナ)と結婚した。1796年11月エカチェリーナ2世が崩御し、パーヴェル1世が即位した。パーヴェル1世は貴族層を中心に多くの人々の反感を買い、暗殺が計画された。1801年3月11日深夜から翌12日にかけて、ニコライ・パーニン伯、ペテルブルク総督パーレン伯を中心とする近衛連隊がパーヴェル1世の住むミハイロフスキー宮殿に乱入し、皇帝は暗殺された(パーヴェル1世暗殺事件(ロシア語版))。

パーヴェル1世暗殺に関して、アレクサンドルの役割については歴史家の間で議論が交わされている。陰謀について事前に計画を知っていた、または決行の日を決めたと言われるが、実際に父帝が殺害されたことに対して非常な衝撃を受けた。アレクサンドルは、罪悪感にさいなまれると同時に父の死を目の当たりにし、また祖父ピョートル3世の非業の死(宮廷クーデター (1762年)(ロシア語版))を思い、より慎重になった。1801年3月23日に即位した。
治世初期
秘密委員会

帝位に就いたアレクサンドル1世は、早速「自由主義的」な改革に着手した。彼は、非公式の諮問機関として秘密委員会を設立した。この委員会は、アレクサンドルの「若き友人たち」、すなわちパーヴェル・ストロガノフニコライ・ノヴォシリツェフヴィクトル・コチュベイアダム・イエジィ・チャルトリスキら、西欧の進歩的啓蒙思想に通じた青年貴族たちによって組織された。

秘密委員会はアレクサンドル1世自身が議長となって、活発な議論が行われた。議論はロシア帝国の改造、すなわち専制から法的秩序の確立のため、憲法を中心とする立憲君主制の導入、農奴制の廃止、教育制度の改革といった問題について討議がなされた。秘密委員会での議論はその多くが空論のまま終わった感があるが、それでもいくつかが具現化された。中央官庁の官制改革が実施され、ピョートル1世によって創設された参議会(コレギア)制は廃止され、代わって外務、陸軍、海軍、内務、大蔵、文部(国民啓蒙)、司法、商務の8省庁が設置された。各省には大臣が置かれ、連絡・調整機関として大臣委員会が組織された。

秘密委員会では農奴解放、土地改革についても議論を繰り広げたが、パーヴェル・ストロガノフの農奴解放推進論は結局、1861年アレクサンドル2世による農奴解放令を待たなければならなかった。この段階では、1803年2月20日の勅令で領主が自発的に農奴を土地つき、有償で解放し、自由耕作民とするという限定的な内容であった。

アレクサンドル1世と秘密委員会の構想した改革は、貴族層を中心に保守派の反発を招いた。また、彼の「若き友人たち」も現実に直面し、1807年に秘密委員会は解散を余儀なくされた。
スペランスキー改革

1801年に開始された立憲制導入を目標とする法制改革、国制改革はミハイル・スペランスキーによって担われることとなった。アレクサンドル1世から改革案作成を命じられたスペランスキーは、極めて大胆な「国家改造」とも呼べる法制改革案を提案した。改革案では基本姿勢として、憲法の制定、皇帝の下での立法行政司法の各国家機関の整備、法の支配による立憲君主制の確立が掲げられた。具体的には、皇帝の任命による国家評議会と、間接選挙による国会(ドゥーマ)の設立であった。

しかし、スペランスキーの国制改革案はあまりにも時期尚早であり、アレクサンドル1世のお気に入りの妹で帝位に執着を見せていたエカテリーナ・パーヴロヴナ大公女をはじめ、貴族・官僚層の憤激を買った。スペランスキーへの排斥が激化する中で、アレクサンドル1世は国制改革の推進に躊躇するようになる。また、彼の念頭にはナポレオン・ボナパルトとの関係悪化があった。アレクサンドル1世はナポレオンとの対決に備え、国内における対立に終止符を打つ必要性に迫られた。1812年3月、スペランスキーは国家顧問を解任され、ニジニ・ノヴゴロドに追放された。
ヨーロッパに対する影響フリードリヒ・ヴィルヘルム3世夫妻とともにフリードリヒ大王の棺を拝むアレクサンドル1世

アレクサンドル1世は、国内政治よりも外交における業績に顕著なものが見られる。事実、彼の壮大な想像力は、ヨーロッパにおける諸問題により強く惹きつけられていた。アレクサンドル1世は即位直後、父帝の中立路線を翻し、1801年にイギリスと同盟した。同時に神聖ローマ皇帝フランツ2世(のちのオーストリア皇帝フランツ1世)と同盟を協議し、さらにプロイセンフリードリヒ・ヴィルヘルム3世とはメーメル(現在のクライペダ)で同盟を締結した。


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