アレクサンドル・ルカシェンコ
[Wikipedia|▼Menu]
1990年、ソフホーズの支配人から白ロシア共和国最高会議代議員選挙に立候補して当選する。ソビエト連邦の崩壊に伴う独立後、ベラルーシは国内が混乱して政府も腐敗していた。そんな中ルカシェンコは1993年に汚職追及委員会議長に就任し政治家達の汚職を糾弾し、有権者の支持を獲得する。

1994年ベラルーシ大統領選挙(英語版)に立候補。大衆迎合的な選挙公約を掲げて他の候補に圧勝し初代大統領に就任する。

2004年9月7日ルカシェンコは大統領の多選を禁じる憲法を改正し多選を可能とする国民投票の実施を発表。翌10月17日の国民投票の結果、8割弱の賛成で3選への道を開く。これを受け2005年アメリカ合衆国大統領に再選を果たしたばかりのジョージ・W・ブッシュは打倒すべき独裁国家の一つとしてベラルーシを挙げた。ブッシュはまたベラルーシを「最悪の独裁国家」と批判している。2006年3月19日に行われた任期満了に伴う大統領選挙(英語版)では、得票率82.6%( ⇒公式発表)で圧勝して3選を果たしたがこの選挙に関しては得票率改竄の疑惑や野党候補およびその支持者への妨害などの不正が行われていたとの証言[23]が存在する。

2010年12月19日投開票の大統領選挙で4選を果たしたが(得票率79.7%)、やはり不正選挙であるという指摘がなされている[24]。ルカシェンコの4選直後からベラルーシ経済は未曾有の危機に陥り、インフラを担う国営企業などがロシアに掌握される可能性が出てきており、ベラルーシが事実上ロシアに吸収合併(乗っ取りとも言える)される可能性も現実味を帯びている。2011年5月27日ルカシェンコは政府関係者を集めた会議の席上「ギャングども(ロシアのこと)に我々の国を売り払いなどしない!」などと述べ、感情を露にした[25]。ロシアはかねてからベラルーシの吸収合併を狙っていた。

2015年4月2日には、国家財政の体力強化のため半年間無職で納税しなかった人間に約360万ベラルーシ・ルーブル(約3万円)の罰金の支払いと、支払い命令に従わなかった場合は拘束され、強制的に社会奉仕活動をさせられるという、旧東ドイツを彷彿とさせる政策の大統領令に署名した。ただ高齢者や障害者、学生などは対象外である[26]

2015年10月11日投開票の大統領選挙(英語版)で得票率83.49%を得て5選[27]

2016年9月の下院選では野党への締め付けを緩め、20年ぶりに政権に批判的な野党系候補が2人当選した。欧米への配慮によるものとされる[28]

2020年8月9日の大統領選挙に向けては米国からルカシェンコへ贈られた「情報提供」を根拠に、対抗馬のビクトル・ババリコを資金洗浄容疑で拘束[29]。元々は政権高官であったものの5月に対立候補として出馬を表明したバレーリー・ツェプカロの候補者登録を拒否[30](有権者署名の半数を無効扱い)するなど、事前に対抗馬の排除を行った。中央選挙管理委員会は80.2%を得票したルカシェンコの6選を認定し、主要対立候補のスヴャトラーナ・ツィハノウスカヤは9.9%にとどまったと発表。しかし不正選挙を訴える市民と警官隊との間で衝突が発生し、10日には数十名の死傷者が出たほか、約3,000人の身柄が拘束された[31]。7月に国外へ亡命していたツェプカロらは翌11日に「救国戦線」結成を表明した[30]。ルカシェンコへの異議を唱える参加者10万人級の大規模デモは、ミンスクにおいて以降も続いた[32][33]が、9月23日に事前予告なしで大統領就任式を実施し、再選挙実施などで妥協する意思がないことを示した[34]。2022年2月27日に実施した憲法改正住民投票(英語版)は65.2%の賛成多数で承認され、自身の当選回数がリセットされ最長で2035年まで続投可能となった[35]

2023年5月9日、モスクワで開かれた対ドイツ戦勝記念パレードに出席したが、歩くことがままならない様子であったこと[36]、同年5月14日に国内で開かれた国旗、国章、国歌の日の記念式典を欠席したことから、健康不安説がささやかれた[37]。5月27日、ロシアのプーチン大統領との会合のあと重篤な状態でモスクワの病院に運ばれたと反政権派指導者の一人であるワレリー・ツェプカロがSNSに投稿したが[38]、29日にはミンスクでロシア中央銀行総裁のエリヴィラ・ナビウリナと会談し健在が確認されたことでツェプカロは批判を受けた[39]。6月24日、ワグネル武装蜂起を開始する直前にルカシェンコ一家や政府高官が使用する飛行機が深夜のうちにミンスクを離陸し、ロシア南部地域を回避しながらトルコボドルムに着陸したことが確認されている[40]。しかしルカシェンコはその後、プーチン、ワグネル創始者エフゲニー・プリゴジンと相次いで会談を行い、両者が流血の事態を回避することで合意、ワグネルの進軍停止と戦闘員の安全を保証するという内容で合意をみたと発表した[41]

2024年2月25日、ルカシェンコは来年予定の大統領選挙(英語版)への出馬を表明。これは、8期連続での出馬を意味している[42]
政策2000年ロシア連邦大統領ウラジーミル・プーチン(右)とメドヴェージェフ大統領と(2008年10月25日)

ルカシェンコ自身はソ連共産党[1][2]だったソ連時代を除いて特定の政党に所属していないものの、ベラルーシ人民戦線とベラルーシ共産党(KPB)などが政権を支持する事実上の与党である。大統領に就任すると、ベラルーシ国旗もかつての白ロシア・ソビエト社会主義共和国の国旗に変更し、それまでの国旗は使用禁止となった。また、政府庁舎に掲げられていた国章も鎌とハンマーがあしらわれている白ロシアの国章に付け替えた(現在はそれを一部修正した現行のベラルーシの国章が付けられている)。また、ロシア語を公用語であるベラルーシ語と同等とし、強いロシア語化政策およびベラルーシ語の迫害政策を敷いている(国営テレビ放送や、大統領就任式などの国家行事でもベラルーシ語ではなく、ロシア語が使われている)。このため、ベラルーシ語自体が絶滅の危機に瀕しているとされる。

経済面ではソビエト連邦の崩壊後の経済危機を乗り切り、国内総生産の成長や工業生産の回復など一定の成果を収めている。ベラルーシの1人当たり国民所得は中所得国水準を維持しており、特に農村部に多くの支持者がいる。また、国内ではロシアやウクライナのような、国有企業の民営化の結果として巨大な影響力を持つオリガルヒが出現していないため、政財界の癒着が少ない[43]
対ロ関係

ロシア連邦との「連邦国家」の実現による両国の政治・経済・軍事などの各分野での両国の統合構想を強く推進し、1999年12月8日には、当時のロシア連邦大統領ボリス・エリツィンとの間でロシア・ベラルーシ連盟国創設条約に調印しているが、その後、彼に代わってロシア連邦大統領に就任したプーチンらが提唱するロシアによる事実上のベラルーシ併合発言に反発し、両国の統合構想は行き詰ったままである。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:115 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef