アレクサンドル・デュマ・ペール
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「彼はあまりたいしたことは教わらなかった。習ったのはラテン語を少しと文法を少し、だがその習字だけは筆の終りの飾りやハート形やバラ形の飾りを混ぜてますます進歩した。それは見事だが鼻もちならなかった。算数におけると同様お祈りの方も、主祷文(パテール)、天使祝詞(アヴェ・マリア)、使徒信経(クレド)の三つ以上はおぼえなかった。生れつきの好みのせいで、彼はいつまでたってもいっこうに教育が身につかず、野蛮で日の暮れとともに森の中にまきおこる自然の音に耳を傾ける森の子供であった。」[12]

演劇に目を開く先達の役割を果たしたのは同い年のアドルフ・ド・ルーヴァンであった。1820―21年頃、2人で数編のヴォードヴィル台本を書いた。もちろん、台本は上演には至らなかった。当代のシェークスピア劇の俳優タルマに引き合わせたのも彼である。

「タルマ、あなたにお礼を言いに来たんです」と、ルーヴァンが言った。

「やあ、君のお若い詩人は満足してますか」と、タルマ。「明日も来て下さい。僕はレギュルスを演ずるよ」

「あーあ」とデュマは溜息をついた。「明日、僕はパリを発たねばならないんです。僕は田舎の公証人の書記なんです」

「へえっ」と、タルマ。「コルネイユも弁護士の書記でしたよ......諸君、未来のコルネイユを御紹介申し上げます」

デュマは青ざめた。「僕の額にさわって下さい」と、彼はタルマに頼んだ。「そうすると幸運が来るんです」

「いいとも」と、タルマ。「余はシェクスピアコルネイユシラーの名において、汝を詩人として洗礼する」

それから、つけ加えて、「いいかね。この青年は情熱に燃えている。それだけでも、きっと何かになるよ」[13]
劇作家

翌1823年、父の友人であったフォア将軍のおかげで後にフランス王ルイ=フィリップ1世となるオルレアン公の秘書課に職を得ることができ、給料を得たためイタリア人広場(現在はPlace Boieldieuボイエルデュー広場)のアパートに田舎から母を呼び寄せることができた。彼は早速2階の隣人で縫製業を営むカトリーヌ・ラベ―を誘惑して、翌年私生児を産ませた。それが小デュマである。野生児で発展家のデュマは次々と女性に手を出し、私生児は彼だけではない。1831年にはベル・クレイサメールとの間に女児マリー=アレクサンドリーヌをもうけた。また1840年には女優イダ・フェリエと結婚してフィレンツェに住んだ。22歳で父親になったデュマは家族のために働くことを余儀なくされたが、劇作家の夢を実現するためせっせと観劇を続けて見た舞台のメモを取り続けた。この頃の舞台は、シェイクスピアを始めとするイギリス演劇の上演が相次ぎ、厳格な三一致の法則に縛られた伝統的な古典演劇一辺倒のフランス演劇界に激変が起こる準備が次第に整った。ロマン派の若い劇作家たちに好都合だったのは当時のコメディ・フランセーズの王室代表委員になったイジドール・テイラー男爵がいたことであった。彼はヴィクトル・ユーゴーアルフレッド・ド・ヴィニーの友人だった。1828年シャルル・ノディエに頼んでデュマは5幕の韻文劇『クリスチーヌ』を仕上げてテイラー男爵に面会することになった。

デュマは指定された時刻に王室代表委員の家に行った。年老いた女中が扉を開けてくれた。

「さあ始めたまえ。君。僕は聴いてるから」と、入浴中のテイラーが言った。

「それでは一幕だけ読みますから、気に入らなければそこで止めさせて下さい」

「それはありがたい」と、テイラーは呟いた。「君は他の連中より僕に同情的なんだね。いい傾向だ。さあ、聴いてるよ」

デュマは第一幕を読み終えると、目を上げる勇気もなく訊いた。

「あの、続けた方がいいでしょうか」

「もちろん、もちろん」と、テイラーは震えながら言った。「僕はベッドに入ろう......全く、非常によい出来だよ」

第二幕が終ると、王室代表委員の方から第三幕を読んでくれと頼んだ。そして第四幕も、第五幕もだった。終ると彼はベッドから跳びおりて叫んだ。

「さあ、これからすぐに、僕といっしょにフランス座に来たまえ」

「どうしてなのですか」

「君が脚本を読む順番をとるためだ」[14]

しかし、『クリスチーヌ』の上演は延期され、デュマは代わりに新しい題材をフランスの歴史に求めた。それがデュマがフランス劇壇に華々しいデビューを果たした5幕散文ドラマ『アンリ三世とその宮廷』である。『アントニー』の幕切れの風刺絵

1829年2月10日、「フランス座」において翌年のユーゴーの『エルナニ』に先立つこと1年、本格的なロマン主義演劇の幕開けとなったのである。『エルナニ』は韻文であったが、デュマの『アンリ三世とその宮廷』は散文であり、一躍ロマン派演劇の旗頭として、その後、立て続けに戯曲を上演することになる。自らの不倫体験を題材にした『アントニー[15]』(1831年)はもはや歴史劇ではなく現代劇であり、主人公のアントニーは当時、社会現象にすらなったほどである。

『ネールの塔』(1832年)は、フレデリック・ガイヤルデという青年が持ち込んだ原作をジュール・ジャナンが手を入れたが、途中で放棄した作品をデュマが最終的に書き直した。この作品は14世紀初頭のフランス王妃とビュリダンとの権力と知力の戦い、尊属殺人、嬰児殺し、近親相姦という恐るべき人倫の蹂躙を舞台にのせ、デュマとガイヤルデの代表作になった歴史秘話であった。その後も演劇への貢献は止むことなく、『キーン』(1836年)、『ベル=イル嬢[16]』、『カリギュラ』(1837年) など、フランス座を始めポルト・サンマルタン劇場、オデオン座、シャルパンティエ座、ルネサンス座などパリのあらゆる劇場で上演された。デュマが生涯で書いた戯曲は総数117[17] とされ、全てが上演された。上演のための台本収入以外に、台本の出版権も高額に登ったため当然収入もうなぎのぼりになった。
小説家

デュマの歴史的知識について否定的・懐疑的な意見が多いが、ウォルター・スコットに追いつけ追い越せとばかりGaule et France 『ガリアとフランス』(1833年)でトゥールのグレゴリウスの『フランク史』をもとに真面目に歴史研究に取り組んだ。

シャルル6世の治世から現代に至る一連の小説を作ること。この観点から見れば、『ガリアとフランス』は作品の前庭をなす。ガリアはどのようにしてフランスになったのか?デュマは1832年の終わりにほとんど作品を書かず、オーギュスタン・ティエリーによるフランスの歴史に関する手紙を読み、シャトーブリアンの『歴史研究』を読んだ。彼はメモをとり、歴史を人々に教えるような、自由と友愛に向かうこの歴史の不可避の感覚を示すような、この壮大な小説シリーズを夢見ている。


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