オリエントの統治者としてのアレクサンドロス3世の遺産を相続したマケドニア人の王たちはヘレニズム文化と学問を既知の世界全体に導入しようとしていた[18]。歴史学者ロイ・マクラウド(英語版)はこれを「文化帝国主義の計画」と呼んでいる[4]。マケドニア人の統治者たちはしたがって、ギリシアとオリエントの遥か古代の王国から得た情報を収集し組み合わせることに関心を持っていた[18]。図書館は都市の名声を高め、学者たちを惹きつけ、各王国の支配と統治の問題に実際的な補助を提供した[4][19]。このような理由から、最終的にすべての主要なヘレニズム的都市の中心部には王立図書館が設置された[4][20]。アレクサンドリア図書館はしかし、プトレマイオス朝の王たちの野心によって、前代未聞の規模となった[4][21]。同時代や前代の統治者とは違い、プトレマイオス王家の人々はあらゆる知識の貯蔵庫を創ろうとした[4][5]。
プトレマイオス朝の庇護の下で
設立パピルス荘で発掘されたプトレマイオス2世の胸像。アレクサンドリア図書館の計画自体は父プトレマイオス1世によると考えられるが、プトレマイオス2世はアレクサンドリア図書館を実現したと考えられている[2]。
アレクサンドリア図書館は古典古代世界の図書館(英語版)の中で最大規模かつ最重要のものの1つであったが、その創建について伝わっていることは歴史と伝説の混合物であり[17]、同時代史料は皆無である[22]。
図書館自体の創建者は現存する史料からプトレマイオス1世である可能性と、プトレマイオス2世である可能性がある[23]。アレクサンドリア図書館に言及する最も古い史料は旧約偽典の『アリステアスの手紙(英語版)』で、これはエルサレムに派遣された使節アリステアスが兄弟に書き送った手紙という体裁を取るユダヤ護教論的文書である[22][23][24]。この中でアリストテレスの弟子ファレロンのデメトリオスがプトレマイオス2世によって図書館のための文書蒐集を命じられたとされている[25][23]。この伝承は後のユダヤ教の著作家によって踏襲されているが[23]、明白に前2世紀以降に作られた偽造文書であり、ユダヤ教的潤色と同時代の事項に関する数多くの誤りが含まれていてその史料的価値は極めて低い[26][22][23]。ファレロンのデメトリオスはアテナイからプトレマイオス1世の下に亡命していた人物であり、実際にはプトレマイオス2世の治世には追放の憂き目にあっている[26][27][15]。一方で、プトレマイオス1世がアレクサンドリア図書館を建設したと明白に語る文書は後2世紀のリヨン司教イレナエウスの証言しかない[28]。古代においてこの見解を採用する学者は極めて少なかった[28]。
現代の学者たちの多くはプトレマイオス2世による創建という説を採用しているが、同時にプトレマイオス1世は図書館建設の下地を作った可能性があるともしている。アレクサンドリア図書館はおそらく、プトレマイオス2世の治世までは組織として物理的には存在しなかったであろう[27]。その時までに、ファレロンのデメトリオスはプトレマイオス朝の宮廷からの恩寵を失っており、したがって彼は組織としてのアレクサンドリア図書館を設立するにあたっていかなる役割も持ってはいなかった[2]。しかしながら、ステファン・V・トレーシー(英語版)はデメトリオスが後にアレクサンドリア図書館の収集物となるであろう最初期の文書の、少なくとも一部を収集することに重要な役割を果たした可能性は高いと主張している[2]。前295年頃、またはその前後の時代、デメトリオスはアリストテレスとテオフラストスの初期の著作を入手したかもしれない。彼は逍遙学派において権威ある人物であったため、これらの収集を独特の立ち位置で行うことができたであろう[29]。