1938年、ヨシフ・スターリン(Иосиф Сталин)の命令により、ソ連に留まるためにはチェコスロヴァキアの市民権を放棄せねばならなくなった。スターリンは「ソ連に残りたい外国人は、ソ連の市民権の取得を受け入れるか、でなければ清廉潔白な状態で出国するように」と命令した[19]。ドゥプチェク一家はスロヴァキアに帰国した[16]。帰国後、彼らはトレンチーンに定住し、家族全員で反ファシスト抵抗組織運動に加わった[19]。アレクサンデルはドブニツィ・ナト・ヴァーホム(スロバキア語版)にて、鍵師の見習いとして働き[18]、のちにスロヴァキア共産党(1939年5月に設立)に入党した。共産党は、当時は非合法の存在であった。父・シュテファンは、1942年5月にスロヴァキア共産党中央委員会委員となり、この年の春からブラティスラヴァで潜伏生活を送っていたが、7月19日に中央捜査局に逮捕された。1944年、ブラティスラヴァ地方裁判所は、シュテファンに懲役28か月の実刑判決を下した。囚人たちはドイツ軍の監視下に置かれ、数週間後にブラティスラヴァに移送された。1945年2月、囚人たちはゲシュタポの手でマウトハウゼン強制収容所に移送されたが、シュテファンは生き残った。第二次世界大戦が終わると彼らは釈放され、トポルチャニ(スロバキア語版)に住み続けた[16]。アレクサンデルの死後の1993年に出版された回顧録『Nadej Zomiera Posledna』(『希望は決して死なない』)によれば、「1945年5月に父が帰宅したとき、その体重は50kg未満であった」という[20]。
1944年8月、スロヴァキア民衆蜂起が勃発すると、アレクサンデルは兄・ユリウスとともにこの蜂起に参加した。アレクサンデルは右足に銃弾を受けて負傷し、ユリウスは1945年1月にドイツ軍に撃ち殺された[16]。兄・ユリウスについて、アレクサンデルは「政治的な考えは持たず、まともな人であった。兄は両親と私の思想を受け入れたが、共産党には加わらなかった」と記述している[20]。
第二次世界大戦が終わったのち、1945年から1949年にかけて、アレクサンデルはトレンチーンにある食品会社にて、「酵母」[16]の生産を専門とする仕事に従事した。
1945年9月、アレクサンデルは、幼馴染の女性のアンナ・ボルセコヴァー(Anna Borsekova)と結婚した[16][19]。1947年に長男のペトルが生まれるも、ペトルは肺炎で死亡した。夫婦の間には、1948年にパヴォル、1950年にペテル、1953年にミランが生まれた[16]。 1939年5月にチェコスロヴァキア共産党から分離した「スロヴァキア共産党」(「sk:Komunisticka strana Slovenska (1939)
権力の掌握
1948年2月、チェコスロヴァキアで起こったクーデターを経て、共産党が権力を掌握した[21]。1948年5月30日に行われた選挙で、ドゥプチェクはプラハの国民議会議員に選出された[16]。