アレクサンダー・フォン・フンボルト
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そしてコロンビアからアンデス山脈伝いにペルーまで困難な探検を行い、チンボラソ火山の山頂まで400mの地点まで到達し、リマに到達した。このとき、ペルー沿岸を流れる海流の調査をしたことにちなんで、フンボルト海流の名がつけられた。

これらの体験を活かし、従来は互いに独立していると思われていた、動植物の分布と緯度や経度あるいは気候などの地理的な要因との関係を説き、近代地理学の方法論の先駆的業績ともいえる大著『コスモス』が書かれた。

南米からの帰国後、フンボルトはイタリアベスビオ火山の調査研究を行い、1807年にベルリンで『自然の風景』を出版、それまでの研究成果をまとめるためにパリに居を定めた。この頃になると、彼の名声はヨーロッパ中に轟き、ナポレオンに次いで有名な人物とも言われた。

既に1794年までに、フンボルトは全ての生命の形態と自然環境との関係を説く『世界の自然』を考えていたという。フンボルトは南北アメリカの熱帯地域での山地調査により自然地理学と地球物理学の基礎を築き、地形、気象地磁気の研究に様々な化学的器具を用い、植物とその環境との関係を調査して6万種に及ぶ膨大な標本を収集したが、その中には数千種に及ぶ新しいが含まれていた。この時、電気ウナギを感電させたという記録も残している[10]

フンボルトの写実的記録が、科学分野に大きな進展をもたらした事は確実で、等温線図の作成(1817年)により、彼は様々な国の気候条件を比較する考えや方法を提示し、また初めて海抜高度の増大に伴う気温の減少率を明らかにし、あるいは熱帯性暴風雨の起源を追求して高緯度での大気の擾乱を支配する複雑な法則を発見する手がかりを得た。さらに植物学に関する彼の論文は、有機体の分布が異なる自然条件に影響されるという、当時としては全く新しい考えに基づいたものであった。また、地球磁力の強さがから赤道に向かって減少することを発見したのもフンボルトであった。
ベルリンに戻る

フンボルトは自由な科学者との交流が得られ、気候がベルリンよりも温暖なパリを好んだ。プロイセン宮廷の職を得た後も、理由をつけてできるだけパリにとどまった。

1827年2月、20年間の思い出に別れを告げ、パリを後にし、ロンドン経由でベルリンに帰った。ロンドンでは4月の末にテムズ河の河底を掘ってトンネルを作り、ワッピングとローザハイズの両岸を結ぶ仕事を見学・体験した[11]。ベルリンに帰った後も、年に数カ月はパリで過ごした。
晩年

80歳の誕生日がテーゲル館[注釈 2]で祝われた。その頃は、午前9時から午後3時まで務め、午前3時よりも前に就寝することは希であった。睡眠は大概7?8時まで眠っている[12]。財政的にも困っていたので、定収入を得るために宮廷の職から引退しなかった[13]。晩年には、洪水のような訪問客があり、また、一年に平均で三千通あまりの手紙を受け取っており、そのうち二千通にはフンボルト自身が返事を書いて、コストも負担した。彼は残りの人生を、自らの課題、とりわけ『コスモス』(第3巻1850年刊、第4巻1858年刊)第5巻の完成に力を注いでいた[14]

1859年に89歳で没した際には、国葬が執り行われた。5月11日、フンボルトの棺は、兄とその妻カロリーネの傍らに埋葬された。一家の墓所であった[15]
人物

なお終身
独身で、男性との交友を好んだという。

フンボルトは、社交的であるばかりでなく、無類の筆まめで、年によっては一年間に一千通をこなすほどであった[16]
Humb.は、植物の学名命名者を示す場合にアレクサンダー・フォン・フンボルトを示すのに使われる。(命名者略記を閲覧する/IPNIでAuthor Detailsを検索する。)
日本語文献
著作

フンボルト『新大陸赤道地方紀行』 大野英二郎・荒木善太訳、
岩波書店17・18世紀大旅行記叢書〈第2期〉9・10・11巻〉、2001-2003年。抄訳版

フンボルト『自然の諸相 熱帯自然の絵画的記述』 木村直司編訳、ちくま学芸文庫、2012年

伝記・小説

ピエール・ガスカール『探検博物学者フンボルト』 沖田吉穂訳、白水社、1989年

ダニエル・ケールマン『世界の測量 ガウスとフンボルトの物語』 瀬川裕司訳、三修社、2008年

アンドレア・ウルフ『フンボルトの冒険 自然という〈生命の網〉の発明』 鍛原多惠子訳、NHK出版、2017年

研究文献

西川治『地球時代の地理思想 フンボルト精神の展開』 古今書院 1988年

手塚章 編『続・地理学の古典 フンボルトの世界』 古今書院 1997年

山野正彦『ドイツ景観論の生成 フンボルトを中心に』 古今書院 1998年

佐々木博『最後の博物学者 アレクサンダー=フォン=フンボルトの生涯』 古今書院 2015年

木村直司『フンボルトのコスモス思想 自然科学の世界像』 南窓社 2019年

脚注[脚注の使い方]
注釈^ ベルリンから20キロ離れた松林と砂丘のなかにある大邸宅テーゲル館[4]
^ フンボルトが生まれ育った館、ベルリンから20キロ離れたところにある

出典^ Rupke, Nicolaas A., Alexander von Humboldt. A Metabiography. Corrected edition. (Chicago and London: University of Chicago Press, 2008). p.54
^ Humboldt attended Schelling's lectures at the University of Berlin (Schelling taught there 1841? 1845), but never accepted his natural philosophy (see "Friedrich Wilhelm Joseph Schelling - Biography" at egs.edu, Lara Ostaric, Interpreting Schelling: Critical Essays, Cambridge University Press, 2014, p. 218, and Rupke 2008, p. 116).
^ Alexander von Humboldt German explorer and naturalist Encyclopadia Britannica
^ ダグラス 2008, p. 1.
^ ダグラス 2008, p. 2.
^ ダグラス 2008, pp. 2?3.
^ ダグラス 2008, p. 7.
^ ダグラス 2008, p. 52.


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