生前の信奉者は少なかったが、死後はカウンターカルチャーで広く知られるようになり、カルト的な人気を博した[2]。
登山家としては、1902年にオスカー・エッケンシュタイン(英語版)とともにカラコルム山脈の最高峰K2に挑戦した最初の西洋人として、またカンチェンジュンガの挑戦を主導したことで知られる[5]。 クロウリーは1875年10月12日に、イギリスのウォリックシャー州のロイヤル・レミントン・スパで、エドワード・アレクサンダー・クロウリーとして生まれた[5][2]。クロウリーの父は、ビール醸造業で財を成した裕福な家庭の後継ぎだったが、非国教徒のプロテスタントの宗派プリマス・ブレザレンのイクスクルーシブ・ブレザレン
経歴
1875 - 1904年(少年 - 青年期)
10代になる頃には、厳格なキリスト教徒としての教育に反抗し、キリスト教に嫌悪感を抱くようになった[5][2]。11歳の時に父親と死別。聖書の矛盾について家庭教師と議論し、オカルトに傾倒し、抑圧こそが悪の原因だと考え、喫煙、自慰行為の露出、動物虐待、学校給食への異物混入、売春婦とのセックスなどを行うようになった[5][2][9]。子どものころから残酷な面があり、母親から猫は9つの命を持つという俗説を聞いた彼は、その真偽を科学的に確かめるためと称し、猫にヒ素を飲ませ、ガスで窒息させ、ナイフで刺し、頭蓋骨を砕き、喉を切り裂き、バーナーで焼き、溺れさせ、最後には高い窓から落とすという動物虐待を行い殺害している[9][10][4]。