アル=アンダルス
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ムスリムによるイベリア半島の征服活動は711年ウマイヤ朝アラブ人のイフリーキヤ(北アフリカ)総督ムーサー・ブン・ヌサイル(英語版)の部下ベルベル人ターリク・ブン・ジヤードが7000人のベルベル人兵士からなる軍を率いてジブラルタルに上陸し、その後すぐに5,000人の追加派遣がなされ総勢12,000人の軍が侵攻したことから開始された[14][* 1]。さらに翌年、総督ムーサー自らアラブ人兵士10,000の軍を率い侵攻した[15][16]。これらのイスラーム軍により西ゴート王国が滅ぼされ、714年にはイベリア半島ほぼ全域がその支配下となった[17]

713年夏にムーサーはカリフの承認なしに行動したとして非難され、ワリード1世によりダマスカスへ召還命令が出されたので、西ゴート王国の王侯400人と奴隷、財宝を伴って帰還の途についた[18][19]。715年2月にダマスカスに到着したものの、非は咎められずに凱旋として遇され、カリフによる祝宴が催された[20][21]

ムーサーが召還命令を受けたとき、アンダルスは彼の第2子アブドゥルアズィーズ(英語版)に委ねられ、後にアブドゥルアズィーズは初代アンダルス総督に任じられたものの、716年に暗殺された[22][23]。アブドゥルアズィーズは総督の官邸をイシビーリーヤ(後のセビリア)に置いたが、6代目のアンダルス総督サムフ・ブン・マーリク・ハウラーニー(英語版)はこれをコルドバに移し、後ウマイヤ朝に続くこととなった[24]

中東と異なりイベリア半島においては、アラブ人、ベルベル人兵士は軍営都市(ミスル)に集住せずに農村地帯に散らばった[25]。このときの入植地は、ウマイヤ朝支配層のアラブ人がアンダルス南部の肥沃な地帯であったのに対し、ベルベル人は北部辺境あるいは山岳地帯であった[25]
後ウマイヤ朝詳細は「後ウマイヤ朝」を参照
後ウマイヤ朝以後

アンダルスの対岸であるマグリブで強勢を誇ったムラービト朝ムワッヒド朝マリーン朝君主たちは、カスティーリャ王国などカトリック王国のレコンキスタに対し、イスラム教の勢力を維持し、ターイファ諸国(後ウマイヤ朝滅亡後のイスラーム小王国)を援助する名目でアンダルスに影響力を及ぼそうとしばしば試みた。
ムスリム支配の終わり

スペインのカトリック両王によりアンダルスは征服され、その後イスラム、ユダヤ教徒の強制改宗や追放が行われた。アラビア語は禁止され、又言語純化政策の中でスペイン語(カスティーリャ語)の中の大量のアラビア語語彙も排撃の対象となった。それにもかかわらず現在のスペイン語には四千語に渡るアラビア語系語彙が残存し、又南部アンダルシアやムルシアの文化、習俗はイスラーム時代のそれを強く残している。ムスリムによってもたらされた工芸、建築技術、農業技術などはスペイン全土にその影響をとどめている。スペインを象徴するアルハンブラ宮殿は元々ナスル朝グラナダ王国の居城だった。このことから、「カトリック両王は軍事的には確かにイスラームを征服したが、文化的には遂にイスラームを屈服させられなかった。」ともいわれる。[要出典]。
社会
住民構成

西ゴート時代の住人に、移住してきたアラブ人やベルベル人が加わり、改宗や通婚が進んだ。このため、ムスリムにはムラディという社会階層が生まれた。キリスト教徒やユダヤ教徒はズィンミーとして共存がはかられ、キリスト教徒はモサラベとも呼ばれた。

西ゴート時代と比べるとユダヤ教徒の社会進出が容易となったため、ユダヤ教徒の人口が急増した。キリスト教徒は、9世紀中葉にはコルドバで殉教者が出るなどの衝突があったものの、イスラームへの改宗が続いた。改宗は後ウマイヤ朝のアブド・アッラフマーン2世の時代から積極的に行われ、相対的にキリスト教徒よりもユダヤ教徒の影響力が強まった。
言語

ローマ帝国の時代から続いていたラテン語は衰退し、ムスリムのアラビア語、キリスト教徒のロマンス語、ユダヤ教徒のヘブライ語が並存した。キリスト教徒が使うモサラベ語はアラビア語の影響をうけ、のちに他のイベロ・ロマンス語に影響を与えた。モサラベの中にアラビア語が広まる一方で、アラビア語もロマンス語の影響をうけ、アル・アンダルス=アラビア語が生まれた。ロマンス語風とアラビア語風の二つの名前を持つ者も現れるようになり、こうした多言語社会は、アンダルスのみならずキリスト教が支配する地域の文芸に影響を与えた。
経済

イベリア半島に定住したムスリムは、イスラーム世界の先進的な農業技術を伝え、灌漑を行って農地の拡大に努めた。綿花サトウキビザクロサフラン、などの東方作物の移植も進んだ。都市では繊維工業、製紙工業が盛んとなり、コルドバ、マラガ、アルメリア羊毛、ベザ、カルセナの絨毯マラガバレンシア陶器コルドバトレドの武器、コルドバの皮革、ジャティバ、バレンシアの紙というように、各地で名産が産まれ、地中海沿岸の諸都市を拠点にして、エジプトシリア東ローマ帝国のコンスタンティノープルとの海上交易が盛んになった。アンダルスの物産は東方イスラーム世界や東ローマ帝国に輸出された。

アンダルスは奴隷貿易の中継点でもあった。スラヴ人をはじめとするヨーロッパ内部からの奴隷(サカーリバ)やアフリカからの黒人奴隷が、直接カイロあるいはバグダードへ送られるルートの他に、アンダルスを経由するルートが存在していた[26]。アンダルスを経由する理由として、古くからの習慣によりアンダルスの港町アルメリア近くで奴隷に去勢手術を施すということがあり、施術の後東方へ送られていった[27]
文化
翻訳文化

コルドバを中心に図書館が建設され、多数の文献の書写や翻訳が行われた。ギリシア哲学やギリシア科学、キリスト教文書がアラビア語に訳され、ラテン語にかわってアラビア語の普及がすすんだ。コルドバはバグダードと並ぶアラビア語の翻訳文化の拠点となり、書物の取引も活発に行われ、バレンシアのハティバ(シャティバ)にはヨーロッパ初の製紙工場も作られた。当時のコルドバについては、ロスヴィータが「世界の宝飾」と表現している。

アラビア語から他の言語への翻訳もすすみ、レコンキスタの進展後も続いた。アルフォンソ10世は@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}トレドに翻訳研究所を設置し[要検証 – ノート]、アラビア語からモサラベ語やラテン語への翻訳をすすめた。レコンキスタ進展中にトレドで活躍した一群の翻訳家たちを「トレド翻訳学派」、「トレドの翻訳者集団」などという[28]。訳された書物は北方にも伝えられ、ヨーロッパ文化に影響を与えた[28]
哲学

ムスリムの哲学者では、合理的な思考を重んじたイブン・バーッジャ、小説形式の思想書「ヤクザーンの子ハイイの物語」を著したイブン・トファイル、アリストテレスの注釈書でも有名なイブン・ルシュドらが知られる。ユダヤ人の哲学者では、アリストテレスの思想とユダヤ教神学の宥和を唱えたモーシェ・ベン=マイモーンゾーハルを著してトーラー解釈に影響を与えたモーシェ・デ・レオンなどが知られる。


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