アルメリアの夏は6月末から9月末までで、晴天の日が多く、8月が最も暑い。海水浴に向いているのは6月?9月で、海水温度は22?26℃。冬は11月末から3月末で、最も寒いのは1月。爽やかで、風の日や部分的に曇りの日が多い。雨が最も多いのは11月であるが、冬の期間に、少ないながらも降雨がある。冬の間の海水温度は、平均17℃。2月は最も低く15℃。観光や訪問に適している時期は、5?7月、10月である[8]。
地勢・産業海岸
地中海のアルメリア湾に面する港湾都市。缶詰などの産業が発展している。白アルメリアブドウの生産で有名で、そのほか製塩、美しい大理石の切り出しでも知られる。コスタ・デ・アルメリアに位置しており、多くの観光客が訪れる。
降水量は年間で200ミリメートル程度であり、ヨーロッパで最も少ないとされる[9]。
近隣の都市としては、約100キロメートル北西のグラナダ、50キロメートル西のアドラなどが挙げられる。シエラ・ネバダ国立公園にも近い。 県都から北西部にあるサンタ・フェ・モドゥハル(Santa Fe de Modujar
歴史イスラーム金貨
先史時代
これらの地域(内陸部、現在のペチナ)は、イベリア原住民の町ウルチ(Urci)または、ウルキ(Urki)(紀元前5?2世紀)を形成していた。また、自然にできていた港がある海岸付近に、小規模の居住地が形成されており、その名残は現在の県都の様々な場所で発見されている(当時の海岸線は、現在よりも内陸部であったと考えられる)。
紀元前8世紀には、フェニキア人が植民地を形成し、現在のアルメリア県の地域では、アブデラ(現在のアドラ。県の西)とバリア(現在のビジャリコス。県の東)が最も重要だった。これらは商業と漁業の中心地であり、ギリシア人航海士との接触を保っていた。フェニキア人の支配がカルタゴ人の支配となったのは、フェニキア人の文明が半島の南西全域に広まったときで、この支配は紀元前209年の第二次ポエニ戦争で消滅する。フェニキアとカルタゴ時代の遺跡は、ベラ、ロス・ベレス、ダリアスに数多く残されている。「:es:Historia_de_Almeria」を参照 アルメリア地域は、スキピオ・アフリカヌスのカルタゴに対する作戦中にローマ帝国の手に落ち、ヒスパニア・ウルテリオル(イベリア半島の南西部のローマ領)の一部となった。ここはイベリア半島南部で最も重要な港のひとつとなった。ローマは領土の組織化、交通網、税金制度を作り、マカエル(Macael
ローマ時代
前述の、当時のウルチ(Urci)または、ウルキ(Urki)と呼ばれた町の存在は、ローマ時代の長老ガイウス・プリニウスが『博物誌』の中で言及している。また、ローマ人は「偉大な港(スペイン語版)」(これは、現在のアルメリアから西に40キロメートルのエル・エヒドにあたるという)という名を付けている。さらに、ローマ時代の遺物として、数多くの陶磁器が多く発掘されている。それは紀元1世紀のものから、ローマ時代以降(5世紀から7世紀)に至る良質な陶磁器製造までの幅広い年代にわたるもので、多様である。このような発見は、長年にわたり、この地が継続的に居住地になっていたことを証明している[11]。
その後、西ゴート王国は南下してイベリア半島に定着し、560年にはトレドに首都を置いた。東ローマ帝国は554年頃、地中海一帯をその影響下に置いていた。この地方では、ローマ帝国の末期からキリスト教が広がっていたという。 711年にアフリカ北岸からのウマイヤ朝の侵入
イスラム時代
初期
後のムハンマド1世 (後ウマイヤ朝)の時代の884年、北アフリカからイスラム勢力がペチナ(現アルメリア県都の北方、バヤナとも呼ばれる)に到着し、イエメン人、ユダヤ人、モサラベ人とともに居住地を形成した。彼らは当初の様々な争いを改め、891年に合意を成し、「海洋共和国(スペイン語版)」(891-955年)を形成し、モスクの周囲に作られていた町を城壁で保護した。この国は政治的、軍事的に自由な立場にあり、商業で成功した。彼らは絹製品、麻、農産物、工芸品、奴隷貿易などで地中海東部まで往来した[12]。「:es:Pechina_(Almeria)」を参照 さらに、後ウマイヤ朝のアブド・アッラフマーン3世は、モサラベ派の反乱軍との戦いに勝利した後、955年、ここに「都市」の称号を与えた。彼は大規模な防壁や見張塔の建設を指示した。見張塔はアルカサバの頂上、現在の第3の囲いの中に建設された。また、王はここをイエメン人の部族アベンセラへス
発展期
このようにして、バヤナ(Al-mariyat Bayyana)の街が建設されていき、現在のアルメリアの基礎となった。この見張塔からアル・マリヤット・バヤナ(ペチナとも)という街の名前が生まれた。これらの建設や防衛はノルマン人などの海賊行為から街を守るためであったし、また、当時チュニジアに建国され、後ウマイヤ朝と対立していたファーティマ朝に備える必要があったことが背景ともされる。
当時は、海岸に近い地域が3つの区に分けられており、それぞれ、ラ・メディナ、アル・ハウド(現在のラ・チャンカ区)とラ・ムサラ(祈祷所の意味)となっていた。また、出身地、信仰、商売によって住人はグループ化され、別々の居住地を形成していた。
ヒシャーム2世の死後(1013年)、コルドバを中心とする後ウマイヤ朝カリフが崩壊したことで、アル・マンスールの部下であったハイラン(スペイン語版)がこの都市を支配した。彼は20日間にわたって都市を包囲した後、アルカサバの城を落として入城した。そして1014年に自ら国王の座に就き、タイファ・アルメリア(小王国)(スペイン語版)(1014-1091年)の初代王となった(在位1014-1028年)。彼は遠征も行ったが、アルメリアでは、現存する城壁(ハイランの城壁)を築いた。彼は戦線に疲れ、1028年に当地で死去した。 アルメリア小王国は1038年に隣国のヴァレンシア小王国に征服されたが、1044年に回復した。アルモタシン
最盛期
また、産業は多様で、金属、モザイク、陶業、銅製品、製塩、乾燥果物などがあり、それらの産品は現在のチュニジアやエジプトまで届けられていた。都市では、この平和な時期に泉、井戸、水路、王宮などが建設された。アルモタシン王は彼自身が詩人であり、その小さな啓蒙的な宮廷で文人や詩人を養うなど、アルメリアにおける短期間の文化開花の時期となった。 「:es:Almotacin」を参照 1085年、キリスト教国、カスティーリャ=レオン王のアルフォンソ6世がトレドを占領。これを懸念したセビリア、グラナダ、バダホスのタイファ王らは、 ムラービト朝の支援を要請した。アルモタシン王もムラービト朝の支援を要請したが、アルメリアの街は、イスラム教国にもキリスト教諸国にとっても、征服したい地域であった。ムラービド朝は1086年にアルヘシラスを経由してイベリア半島に侵入し、サグラカスの戦い(サラカの戦い)でカスティーリャ=レオン王を破った。1091年、最後の王であったアフマド・ムイズ・アド・ダウラ
衰退期
その後、キリスト教勢力側はアルメリア地方に侵攻しており、1147年、アルフォンソ7世の指揮の下、アラゴン人、カタルーニャ人、ジェノヴァ人、ピサ人、カスティーリャ人の軍隊によって征服された。一方、現在のモロッコ地方から興ったムアッヒド朝は、1147年にムラービト朝を滅ぼし、アル・アンダルスに進出し、他のイスラム主要市を手中に収め、アルメリア地方も1157年に征服した。キリスト教の支配下は10年間であったが、この短期間の占領により、軍事的にも商業的にもその栄華は決定的な終焉を迎えた。また、この時代の絹や織物産業は、後にピサ、フィレンツェ等の地方へ伝えられていった。