1583年、サンタ・クルス侯アルバロ・デ・バサン(レパントの海戦の英雄)が艦隊計画を発案した[18]。史料が残っている1586年の計画では船舶796隻を動員し、予算総額は15億2,642万5,898マラベディーにおよび[19]、レパント海戦の予算の実に約7倍となった。あまりの高額であり、代案として艦隊規模を縮小し、上陸部隊はスペイン領ネーデルラント総督パルマ公アレッサンドロ・ファルネーゼの陸軍を活用することになった[20]。無敵艦隊総司令官メディナ=シドニア公アロンソ・ペレス・デ・グスマン
1587年4月29日から30日(旧暦4月19日 - 20日)、フランシス・ドレーク率いるイングランド艦隊が準備妨害のためカディス港に来襲し、スペイン船37 - 24隻が破壊または捕獲された[21]。その後、ドレークはポルトガル沿岸部を襲撃して100隻以上を破壊または拿捕し、この際に捕獲した大量の樽材を焼却している[22]。樽材の新規確保が難しかったためスペインは生乾きの粗悪な板を使用することになり、このあとの遠征で飲料水・食料品へ甚大な被害を与えることになる[23][注釈 6]。これにより、艦隊計画を大幅に変更する。(「スペイン王の髭焦がし」事件 (Singeing the King of Spain's Beard) )
スペイン艦隊は波の穏やかな地中海での戦闘が主で、特にレパントの海戦ではガレー船により華々しい戦果を収めており、帆船への移行がなかなか進まなかった。ドレークのカディス港襲撃の際に新型帆船に対するガレー船の無力さが露呈したこともあり[24]、当初計画のガレー船40隻を4隻へと大幅に減らし[25]、また機動性と攻撃性を重視し、漕ぎ手の上層部に大砲を配置した帆船とガレー船の混合型ガレアス船を導入するが、波の荒い英仏海峡ではかえって安定性を得ることができず、実戦では成功しなかった[26]。
さらにスペイン軍の大砲の数を2倍とし[27]、数発で敵船の動きを止めて従来の接舷斬り込み戦法に持ち込むための、重量の大きい砲弾を放つ、威力は強いが短射程のカノン砲や全カルバリン砲が多用されていた[28][29]。また、接舷切り込み直前の接近戦で人員殺傷を狙うため、ペリエール砲以下の軽砲が搭載砲約2,500門の3分の2を占めていた[30]。この多数の軽砲を搭載するため、主力戦闘艦であるガレオン船には大規模な船首楼・船尾楼が設置されていたが、トップヘビーで船体を不安定にし、航洋性と備砲の命中率の低下の原因となった[31]。対して、イングランド軍の大砲の95パーセントが、軽量弾を放つ長射程の半カルバリン砲であった[29]。短射程軽砲を積まないのに合わせて大きな船首尾楼は廃止され、航洋性や運動性の優れた低重心設計の船体となっていた[31]。半カルバリン砲が長射程といっても長距離では命中率が低く、命中しても軽量弾では船体に致命傷にはならないため、当初から接近戦を志向したスペイン艦隊の戦術理論の方が先進的との評価もある[30]。スペイン側もこのような両軍の装備の違いを把握しており、フェリペ2世は、イングランド艦隊が長距離砲戦を試みるだろうから、スペイン艦隊は接近して敵艦を鉤綱で拘束して攻撃するよう艦隊出撃前に指示していた。ただ、イングランド側の方が砲甲板の設計や砲員の技量に優れたこともあり、イングランド側が砲戦で終始主導権を握る展開へとつながった[30]。
当初1588年1月出撃の予定だったが、フェリペ2世の病気のため出撃は延期になった。さらに2月9日、艦隊司令官だったサンタ・クルス侯アルバロ・デ・バサンが急逝する。代わりにフェリペ2世はメディナ=シドニア公アロンソ・ペレス・デ・グスマンを総司令官に任命した。メディナ=シドニア公は温厚な人物で優れた行政官でもあったが、海戦の経験は皆無だった[32][33][34]。当初、彼は就任を固辞して別人を推薦したが、総司令官には高位の名門出身者がふさわしいと考えたフェリペ2世はこれを認めなかった[35]。代わりにフェリペ2世は、有能な海軍軍人であるディエゴ・フローレス・デ・ヴァルデス(es)を補佐役として任命した[36]。
無敵艦隊の出撃スペイン北西部フェロル港を出港する無敵艦隊
遠征が実行される前に、ローマ教皇シクストゥス5世はフェリペ2世に十字軍税の徴収を許し、彼の兵士たちに贖宥状を与えた。