フジモリは、大統領に就任すると大規模な経済改革を実行した。国際通貨基金 (IMF) による詳細な指導を基に、様々な国有財産の売却、国内法の改正、外国資本の石油、天然ガス、鉱物資源への投資を積極的に誘致した。これらの政策によってペルーのマクロ経済は安定を取り戻し、ガルシア政権下で落ち込んでいた外国との貿易額も劇的に改善した。のちに、この改革は「フジショック」と呼ばれた[3]。
これらの政策を円滑に進めるため、鉱物・石油資源の開発計画を指導する部局を政府内に設置した。それまでは環境法により一元的に決定されていた化学物質の排出規制、廃棄物の処理手続きなどは、この組織によって開発プロジェクトごとに決定された。同時に国立公園、アンデス山脈地域、アマゾン川流域など保護地区での開発規制を撤廃した。
議会閉鎖と憲法破棄)」の議席数は3番手に留まった。これはアメリカ革命人民同盟と作家マリオ・バルガス=リョサの設立した民主戦線後に続く勢力ではあったものの、下院180議席中32議席、上院で62議席中14議席を得たにすぎなかった。「:es:Periodo parlamentario 1990-1992 del Congreso de la Republica del Peru
このため、政府と議会の関係は政権の始まりからの緊張と対立を孕んだものとなった。行政上の議会の監督や、1979年憲法で制定された民主主義の原則は、フジモリ大統領の直接的なポピュリストの見地から厄介な存在だった。議会は政府に立法権を付与したにもかかわらず、その後の法令の改正により大統領を苛立たせ、大統領は議会が承認した法律を順守した[15]。
フジモリは議会と伝統的政治とを通じた「大衆(ポピュラリティー)の危機」を利用して、これが国家の問題、特に危機管理に対する障害の側面を強調した。 議会閉鎖と権力の絶対的なコントロールを計画し始めた。
憲法秩序の破棄は、最終的に1992年4月5日の夜、「アウトゴルペ」として知られるようになった[16][17]。 フジモリは、共和国議会を解散し、司法権の活動を中止するように国家にメッセージを出した。各都市に配置された軍は、主要な民主主義機関の本部と政治的反対派の住宅を取り囲み、メディアに襲撃をかけ、ジャーナリストのグスタボ・ゴリッティ(スペイン語版)らを誘拐した[18]。 自作クーデターは市民の過半数によって支持され、同時にさらに8年間続いていくフジモリ政府の民主的な正当性に疑問を投げかけるものとなった。
憲法がその修正のための仕組みを提供しているのは事実だが、(中略)憲法は現在の任務においてはほぼその役割を終え、我々はペルー再建のために必要な法的手段のみを有することとなるだろう。 (中略)
ペルー離陸を可能とするすべての深い変化を作り出す機関または仕組みとは何か?間違いなく、議会も司法も現在の変化を代表するものではなく、むしろ変革と進歩を阻止している。共和国大統領として、私はこれらの歪みを直接証明し、この国家再生プロセスを軽減するための例外的態度を取る責任を感じる。私は以下の重大な措置を講じることを決めた。
立法権の新しい組織構造の承認まで、共和国議会を一時的に解散する。これは国民投票により承認される。
司法支部、国家治安審議会、憲法保証裁判所、公務員の誠実で効率的な管理の再編。
国家資源の不正使用者に対する大幅な制裁強化につながる十分かつ時宜を得た行政監督を達成するための会計監査官事務の再編。
1992年4月5日、アルベルト・フジモリ・フジモリ[19]
1992年11月13日、ハイメ・サリナス・セド少将(外部リンク)はペルー軍兵士と決起し、「自作クーデター」後に崩壊した民主的秩序を再確立しようと試みた。軍の襲撃を受けたフジモリはすぐに日本大使館に駆け込み、彼らを暗殺を試みたとして非難した。 まもなく、少将らは投獄された[20]。
その後、フジモリは事実上の政権運営を開始した。この政府は、独裁的だとして指摘された「緊急国家復興政府」として洗礼を受けた。内外からの圧力(主に米州機構)のため、民主制議会のための迅速な選挙が招集された。1993年の憲法国民投票[21](Referendum constitucional de Peru de 1993)で52.24%を獲得し[22]勝利した結果、新憲法が公布され、国家機能が変わり、大統領の権限強化がなされ、 検察の力が低下したことに加えて、議会の権限が切断されることとなった。 フジモリ政権初期、マオイスト系テロ組織センデロ・ルミノッソの激しいテロ攻撃とチェ・ゲバラ系のトゥパック・アマル革命運動が起こった。1992年7月16日、リマ、ミラフローレス地区のタラタ通りで20名もの犠牲を出した自動車爆弾爆発事件[23]は、この時代を代表する流血事件となった。 国家警察(DIRCOTE)と軍隊(FF.AA)とを中心とした新たな「反=反乱作戦」が立案された。ペルー軍の助けを借り、パトロールをDECAS(反破壊的民間防衛委員会)に委ね、テロ組織のリーダーを逮捕した。その結果、ペルー国内でのテロ行為は大幅に減少した。 一方で、国家による抑圧や深刻な人権侵害に関連した暴力行為もあった。 1991年12月、15人もの市民が殺害されるバリオス・アルトス虐殺事件が起こった。 1992年7月にはエンリケ・グスマン・イ・バジェ国立教育大学で9人の学生と教授の殺害事件(ラ・カントゥタ事件)が起こった。これらのアクションは、テロ組織センデロ・ルミノッソの潜伏メンバーとの闘いのために設立された準軍事グループである「コリーナ部隊」によって行なわれた。これはペルー版「汚い戦争(la guerra sucia)」として見られた[24]。 ペルーの海軍、軍隊、国家警察の情報サービスは、軍事訓練された通称「ロンデロス(Ronderos)」と呼ばれる民兵自衛組織Rurales de la Sierraと手を結び、テロ組織により強い打撃を与えた。 1992年7月、脱走中だったトゥパック・アマル革命運動のリーダー、ビクトル・ポライ・カンポスの逮捕が達成された。 9月12日、さらなるテロ組織への強烈な一撃が見舞われた。この日、ケティン・ビタル大佐(スペイン語版
テロとの戦いと人権侵害
その後、センデロ・ルミノッソは撤退し、数年後にはペルー高原の森へとその規模を縮小され[27]、重大な脅威ではなくなった。 このようにしてフジモリは10年にも渡るテロ活動を縮小へと導いた。
これに関して、真実和解委員会(la Comision de la Verdad y Reconciliacion(CVR))は、「一般的な結論」として以下のように述べている。
50、真実和解委員会は1985年から国家警察の諜報活動がテロ組織の組織形態と行動に関するより正確な知識を得るようになり、結果、国家テロ対策部隊(DINCOTE)による組織指導者の逮捕が達成された事、とりわけ、1992年7月にビクトル・ポライ・カンポス、同年9月12日にアビマエル・グスマンの逮捕はテロ組織を戦略的敗北へ導く要因となった事を記録している。
100、(しかし、同時に)1992年に開始された「反=反乱作戦」は反乱者たちの政治行政組織(OPA)から選択的な排除をしている。ペルー国家情報局顧問ブラディミロ・モンテシノスに関連して、「コリーナ部隊」と名付けられた死の部隊が行動し、殺人、強制失踪、虐殺を行なった。真実和解委員会は、アルベルト・フジモリ大統領とブラディミロ・モンテシノスとペルー国家情報局高官が「コリーナ部隊」によって行なわれた殺人、強制失踪、虐殺に対して刑事責任を負うことを確認する証拠を握っている。