アルフレッド・ヒッチコック
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ほとんどの作品がサスペンス映画スリラー映画であり、革新的な映画技法や独自の作風を使用し、「サスペンスの巨匠」[2]や「スリラーの神様」と呼ばれた[3][4]。ほとんどの監督作品に小さな役でカメオ出演したことや、テレビ番組『ヒッチコック劇場』(1955年 - 1965年)のホスト役を務めたことでも広く知られている。

ヒッチコックは当初、電信ケーブル会社で技術者や広告デザイナーとして働き、1919年サイレント映画の字幕デザイナーとして映画業界入りし、美術監督や助監督などを経て、1925年に『快楽の園(英語版)』で監督デビューした。最初の成功した映画『下宿人』(1927年)で初めてサスペンス映画を手がけ、『恐喝』(1929年)からトーキーに移行した。1930年代は『暗殺者の家』(1934年)、『三十九夜』(1935年)、『バルカン超特急』(1938年)などで高い成功を収め、1939年には映画プロデューサーのデヴィッド・O・セルズニックと契約を結んで渡米し、その1本目となる『レベッカ』(1940年)はアカデミー賞作品賞に選ばれた。1940年代はセルズニックや他社で『疑惑の影』(1943年)や『汚名』(1946年)などを撮り、さらには独立プロダクションを設立して『ロープ』(1948年)などを発表した。1950年代以後はワーナー・ブラザースパラマウント・ピクチャーズユニバーサル・ピクチャーズなどの大手映画スタジオと契約を結び、プロデューサーを兼任して『見知らぬ乗客』(1951年)、『裏窓』(1954年)、『めまい』(1958年)、『北北西に進路を取れ』(1959年)、『サイコ』(1960年)、『』(1963年)などを発表し、高い評価と興行的成功を収めた。その間の1955年にはアメリカ市民権を取得した。

ヒッチコックは映像で観客の感情を操作し、サスペンスの不安や恐怖を盛り上げる演出や手法を追求した。「ヒッチコック・タッチ」と呼ばれる独自のスタイルやテーマは、登場人物の視線で描くことで観客をのぞき行為をする役割にしたことや、犯人に間違えられた男性と洗練された金髪美女が主人公のプロット、サスペンスとユーモアの組合せ、マクガフィンの設定、二重性のテーマなどを特徴とする。独自のスタイルを持つ映画作家としてのヒッチコックの評価は、1950年代にフランスの映画誌『カイエ・デュ・シネマ』の若手批評家により確立されたが、それまでは単なる娯楽映画を作る職人監督と見なされていた。ヒッチコックは生前にさまざまな栄誉を受けており、1968年映画芸術科学アカデミーからアービング・G・タルバーグ賞を受賞し、亡くなる4か月前の1979年12月には大英帝国勲章を授与された。今日までヒッチコックの作品は、さまざまな学術的研究や批評の対象となっている。
生涯
初期の人生:1899年 - 1919年
幼少期と教育ヒッチコックの生まれた場所であるレイトンストーンのハイ・ロード517番地(ガソリンスタンドが建っている所)。右側の建物にはそれを記念した『』(1963年)の壁画が描かれている[5]

1899年8月13日、アルフレッド・ジョゼフ・ヒッチコック(以下、ヒッチコックと表記)はイースト・ロンドン(当時はエセックスの一部)の郊外、レイトンストーン(英語版)のハイ・ロード517番地に、鶏肉店と青果物の卸売商を営む父のウィリアム・エドガー・ヒッチコックと、母のエマ・ジェーン・ヒッチコック(旧姓はホイーラン)の3人の子供の末っ子として生まれた[6][7]。兄姉は9歳上のウィリアム・ダニエル・ヒッチコックと、7歳上のエレン・キャスリーン・ヒッチコック(愛称はネリー)である[7]。一家は英国国教会の信者が多数を占めるイングランドでは少数派である、アイルランド系のローマ・カトリック教徒だった[7][8]

幼少期のヒッチコックは内向的でおとなしく、遊び友達もおらず、いつも自分で面白いことを考え出してはひとりで遊んでいた[9][10][11]。その遊びというのは地図や時刻表を研究したり、旅行案内書を読んだり、ロンドン市内を散歩したりするというものだった[8][10]。8歳になるまでにはロンドンを走る馬車鉄道の全線を制覇し、さらにイギリスのほとんどの鉄道路線の時刻表を暗唱してみせて家族を驚かせた[10]。他にもロンドンの乗り合いバスの路線図、オリエント急行の駅名、定期船の航路とそれらの時刻表、ニューヨークの地図を暗記していた[11]。家の壁には巨大な海図を貼り、そこに航行中のイギリス商船の日ごとの位置をつけていた[10]

ヒッチコックは父に「けがれなき小羊くん」と呼ばれるほど行儀が良かったが、生活全体に規律と秩序を求める人物だった父から厳しいしつけを受けた[9][12]。後年にヒッチコックがマスコミや知人に好んで繰り返し話したエピソードに、5歳か6歳ぐらいの時に父のしつけで警察署の留置場に入れられたという話がある。ヒッチコックは父から手紙を持たされ、近くの警察署まで行くように命じられたが、手紙を読んだ警察官に「わるい子にはこうするんだよ」と言われ、数分間だけ留置場に閉じ込められた[13][14]。ヒッチコックはこの経験がきっかけで、生涯にわたって警察や監獄に恐怖心を抱くようになり、それは自身の作品のモチーフとなって現れた[13][15][注 1]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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