アルフレッド・ノーベル
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さらに1893年にはウプサラ大学から名誉学位を授与された。

1890年、知人がノーベルの特許にほんのわずか変更を加えただけの特許をイギリスで取得。アルフレッドは話し合いでの解決を希望したが、会社や弁護士の強い意向で裁判を起こす。しかし1895年最終的な敗訴が確定する。

1891年、兄ルドヴィッグと母の死をきっかけとして、長年居住していたパリからイタリアのサンレーモに移住。

1895年、持病の心臓病が悪化しノーベル賞設立に関する記述のある有名な遺言状を書く[1]。病気治療に医師はニトロを勧めたが、彼はそれを拒んだ。1896年12月7日、サンレーモにて脳溢血で倒れる。倒れる1時間前までは普通に生活し、知人に手紙を書いていた。倒れた直後に意味不明の言葉を叫び、かろうじて「電報」という単語だけが聞き取れたという。これが最後の言葉となった。急ぎ親類が呼び寄せられるが、3日後に死亡した。死の床にも召使がいただけで、駆けつけた親類は間に合わなかった。現在、アルフレッドはストックホルムのNorra begravningsplatsen(北の墓地)に埋葬されている。
私生活

ヨーロッパと北米の各地で会社を経営していたため、各地を飛び回っていたが、1873年から1891年まで主にパリに住んでいた[2]。孤独な性格で、一時期はうつ病になっていたこともある[1]。生涯独身であり、子供はいなかった。伝記によれば、生涯に3度恋愛したことがある。最初の相手はロシアの娘アレクサンドラだが、彼のプロポーズを拒絶した。

1876年には結婚相手を見つけようと考え、女性秘書を募集する広告を5ヶ国語で出し、5ヶ国語で応募してきたベルタ・キンスキーという女性を候補とする。しかしベルタには既にアルトゥール・フォン・ズットナー(ドイツ語版)という婚約者がおり、ノーベルの元を去ってフォン・ズットナーと結婚した。この2人の関係はノーベルの一方的なものに終わったが、キンスキーが「武器をすてよ」などを著し平和主義者だったことが、のちのノーベル平和賞創設に関連していると考えられている。そして1905年に女性初のノーベル平和賞を受賞。ノーベルが晩年に使用していたスウェーデンのマナー・ハウスボフォース社が所有

また同じく1876年、当時20歳のゾフィー・ヘス(Sofie Hess)と出会い、交流が始まる[2]。ゾフィーとの関係は18年間続き[2]、218通の手紙を残した。しかし1891年に、ゾフィーが他の男(ハンガリー人の騎兵隊の将校)の子供を宿していることが分かり2人の関係は急速に冷えた。ゾフィーはこの子供の父親と結婚。ノーベルの死後、ゾフィーはこれらの手紙をノーベル財団に高額で買い取らせることに成功したためすべてが残っており、またノーベル財団により1955年から公開もされている。ゾフィーはこの手紙の売却で巨万の富を得ている。

正式な高等教育を受けていないが、ノーベルは母語であるスウェーデン語に加えて、英語フランス語ドイツ語イタリア語ロシア語が堪能だった。また少年時代から文学に関心を持っており、特にバイロンシェリーの詩に熱中して自らも詩を書いていたが、それらのほとんどは晩年に破棄された。最晩年に書き上げた戯曲ネメシス」という作品はベアトリーチェ・チェンチを主人公としたストーリーで、シェリーの『チェンチ』が着想の一部になっている。これはノーベルが亡くなったころ印刷されていたが、スキャンダラスで冒涜的な内容だったことから3部だけ残して全て廃棄された。残っていたものをベースとして2003年、スウェーデンで2言語版(スウェーデン語とエスペラント)が出版され、その後スロベニア語やフランス語に翻訳された[6]。2010年にはロシアで新たな2言語版(ロシア語とエスペラント)が出版されている。
発明詳細は「ダイナマイト」および「ゼリグナイト」を参照

ニトログリセリンの衝撃に対する危険性を減らす方法を模索中、ニトロの運搬中に使用していたクッション用としての珪藻土とニトロを混同させ粘土状にしたものが爆発威力を損なうことなく有効であることがわかり、1867年ダイナマイトの特許を取得した。同年イングランドのサリーにある採石場で初の公開爆発実験を行っている。また、ノーベルの名は危険な爆薬と結びついていたため、そのイメージを払拭する必要があった。そのためこの新爆薬を「ノーベルの安全火薬」(Nobel's Safety Powder) と名付ける案もあったが、ギリシア語で「力」を意味するダイナマイトと名付けることにした。

その後ノーベルはコロジオンなどに似た様々なニトロセルロース化合物とニトログリセリンの混合を試し、もう1つの硝酸塩爆薬と混合する効果的な配合にたどり着き、ダイナマイトより強力な透明でゼリー状の爆薬を生み出した。それをゼリグナイトと名付け、1876年に特許を取得した。それにさらに硝酸カリウムや他の様々な物質を加えた類似の配合を生み出していった。ゼリグナイトはダイナマイトより安定していて、掘削や採掘で爆薬を仕掛けるために空ける穴に詰めるのが容易で広く使われたため、ノーベルは健康を害したがそれと引き換えにさらなる経済的成功を得た。その研究の副産物として、ロケットの推進剤としても使われている無煙火薬のさきがけともいうべきバリスタイト(英語版)も発明している。
遺産とノーベル賞アルフレッド・ノーベルの遺言書(1895年11月27日署名)詳細は「ノーベル賞」を参照

1888年4月12日カンヌを訪れていた兄ルドヴィッグが死去。この時、ノーベルと取り違えて死亡記事を載せた新聞があり[1]、見出しには「死の商人、死す」とあった[1]


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