とはいえ敗北で失った軍事力の補充は必要で、2人の娘ウラカとテレサをそれぞれフランス貴族のレーモンとアンリに嫁がせ、彼等にイベリア半島北西のガリシアとポルトゥカーレを与えた。しかしムラービト朝に対して劣勢なのは変わらないどころか、後継者に指名した息子サンチョが1108年のムラービト朝との戦いで敗死したため[14]、アルフォンソ6世は同年ウラカを後継者に変更、合わせて未亡人になっていたウラカをアラゴン王アルフォンソ1世と再婚させることを決定した翌1109年に亡くなった。だが、結婚には貴族の反対が根強い、2人の性格が合わない、ウラカと先夫の子アルフォンソ(後のアルフォンソ7世)を擁立する一派が現れるなど多くの障害が重なり内乱が発生、ムラービト朝がその隙にトレドを攻撃、カスティーリャは存亡の危機に立たされた[15]。 アルフォンソ6世は英雄叙事詩『わがシッドの歌』において、中世の詩人が偉大な王に与えた役割を演じている。抑圧者となったり、勇ましく身勝手な貴族たちの犠牲となったりする。トルバドゥールが理想とするタイプの支配者である。 兄によってサアグンの修道院に囚われたが脱走し、騎士道的な友情を結んだ「ムーア人の騎士」トレドのアルマムン(アルマウン)に匿われた、姉ウラカと近親相姦関係にあったなど、こうした伝説は彼を英雄化した詩人によるものであろう。また、アルフォンソ6世は兄を暗殺した疑いをかけられ、ブルゴスでエル・シッドを代表とする貴族たちに暗殺を否定する宣誓を要求され、これを恨んでエル・シッドを追放したとも伝えられる。 少なくとも5回結婚し、成人した子供は庶子も含め6人いる。 最初に、アキテーヌ公ギヨーム8世の娘イネスと結婚。1078年に死別。 2度目に、ブルゴーニュ公ロベール1世の娘コンスタンサと結婚。 3度目に、ブルゴーニュ伯ギヨーム1世の娘と仮定されるベルタと結婚した。 4度目に、セビリア王ムータミドの息子アル・マームーンの寡婦[14]サイーダ(es 5度目に、ベアトリスと結婚した。ベアトリスは出身不明とされるが、文献では最初の妃イネスの異母妹であり、同じくアキテーヌ公ギヨーム8世の娘であることを示唆されている(en:Alfonso VI of Leon and Castile#Wives, concubines and issue
伝説
妻子
ウラカ(1080年 - 1126年) - カスティーリャ女王。最初の夫はブルゴーニュ伯ギヨーム1世の子レーモン。次の夫はアラゴン王アルフォンソ1世。ボルゴーニャ朝の祖でカスティーリャ=レオン王アルフォンソ7世の母。
サンチョ(1098年 - 1108年) - ウクレスの戦いで戦死[14]
エルビラ(1100年 - 1135年) - シチリア王ルッジェーロ2世と結婚。
サンチャ(1101年 - ?) - リエバナ伯ロドリーゴ・デ・ララと結婚。
愛人ヒメナ・ムニョスとの間に2女をもうけた。
テレサ(1080年 - 1130年) - 初代ポルトゥカーレ伯アンリ(ブルゴーニュ王朝の祖)と結婚。ポルトガル王アフォンソ1世の母。
エルビラ(en、1082年? - 1151年) - トゥールーズ伯レーモン4世と結婚。
脚注[脚注の使い方]^ a b ローマックス、P76。
^ 芝、P76 - P77、西川、P91 - P92。
^ 芝、P77 - P78、関、P150、西川、P93 - P96。
^ ローマックス、P253、西川、P99 - P100。
^ ローマックス、P78、関、P151、P160。
^ ローマックス、P78 - P79、P82 - P84、P87、芝、P78 - P85、P176。
^ ローマックス、P134 - P135、芝、P174 - P178。
^ 芝、P178 - P179、P182 - P186。
^ ローマックス、P87 - P90、芝、P85 - P88、関、P104、西川、P100 - P102。
^ a b c 関、P106。
^ ローマックス、P91 - P95、芝、P107 - P108、西川、P102 - P103。
^ ローマックス、P96、芝、P111、西川、P103。
^ ローマックス、P96 - P103、芝、P111 - P113、西川、P103 - P105。
^ a b c d ローマックス、P99。