不幸中の幸いだったのは、ユースフが戦後トレドへ進まずアフリカへ引き返したことだった。それは、ユースフのおかげで助かったはずのタイファ諸国が、カスティーリャとよりを戻そうと画策していることに気付いたユースフがスペイン干渉を嫌ったからだった。これ以降アルフォンソ6世はタイファ諸国を荒らし回り、時折彼等の要請でやって来るムラービト朝に対して敗退を続け、1097年、1108年に大敗したが、タイファとユースフの潜在的な対立が敵の勢いを鈍らせ、決定的な損失が避けられたためトレドは守り抜いた。この時期にムラービト朝との戦いに勝ち、その北上を妨げることができたのは、英雄エル・シッドの軍だけであり、1094年にバレンシア王国を手に入れてからはバレンシアの他の都市を征服しつつムラービト朝の軍に勝利、1099年に死ぬまでバレンシアを保持し続けたが、アルフォンソ6世は彼亡き後のバレンシアに防衛は無理と判断して1102年にシッドの未亡人を説得してバレンシアを退去させた[10][13]。
とはいえ敗北で失った軍事力の補充は必要で、2人の娘ウラカとテレサをそれぞれフランス貴族のレーモンとアンリに嫁がせ、彼等にイベリア半島北西のガリシアとポルトゥカーレを与えた。しかしムラービト朝に対して劣勢なのは変わらないどころか、後継者に指名した息子サンチョが1108年のムラービト朝との戦いで敗死したため[14]、アルフォンソ6世は同年ウラカを後継者に変更、合わせて未亡人になっていたウラカをアラゴン王アルフォンソ1世と再婚させることを決定した翌1109年に亡くなった。だが、結婚には貴族の反対が根強い、2人の性格が合わない、ウラカと先夫の子アルフォンソ(後のアルフォンソ7世)を擁立する一派が現れるなど多くの障害が重なり内乱が発生、ムラービト朝がその隙にトレドを攻撃、カスティーリャは存亡の危機に立たされた[15]。 アルフォンソ6世は英雄叙事詩『わがシッドの歌』において、中世の詩人が偉大な王に与えた役割を演じている。抑圧者となったり、勇ましく身勝手な貴族たちの犠牲となったりする。トルバドゥールが理想とするタイプの支配者である。 兄によってサアグンの修道院に囚われたが脱走し、騎士道的な友情を結んだ「ムーア人の騎士」トレドのアルマムン(アルマウン)に匿われた、姉ウラカと近親相姦関係にあったなど、こうした伝説は彼を英雄化した詩人によるものであろう。また、アルフォンソ6世は兄を暗殺した疑いをかけられ、ブルゴスでエル・シッドを代表とする貴族たちに暗殺を否定する宣誓を要求され、これを恨んでエル・シッドを追放したとも伝えられる。 少なくとも5回結婚し、成人した子供は庶子も含め6人いる。 最初に、アキテーヌ公ギヨーム8世の娘イネスと結婚。1078年に死別。 2度目に、ブルゴーニュ公ロベール1世の娘コンスタンサと結婚。 3度目に、ブルゴーニュ伯ギヨーム1世の娘と仮定されるベルタと結婚した。 4度目に、セビリア王ムータミドの息子アル・マームーンの寡婦[14]サイーダ(es 5度目に、ベアトリスと結婚した。ベアトリスは出身不明とされるが、文献では最初の妃イネスの異母妹であり、同じくアキテーヌ公ギヨーム8世の娘であることを示唆されている(en:Alfonso VI of Leon and Castile#Wives, concubines and issue
伝説
妻子
ウラカ(1080年 - 1126年) - カスティーリャ女王。最初の夫はブルゴーニュ伯ギヨーム1世の子レーモン。次の夫はアラゴン王アルフォンソ1世。ボルゴーニャ朝の祖でカスティーリャ=レオン王アルフォンソ7世の母。
サンチョ(1098年 - 1108年) - ウクレスの戦いで戦死[14]
エルビラ(1100年 - 1135年) - シチリア王ルッジェーロ2世と結婚。
サンチャ(1101年 - ?) - リエバナ伯ロドリーゴ・デ・ララと結婚。
愛人ヒメナ・ムニョスとの間に2女をもうけた。
テレサ(1080年 - 1130年) - 初代ポルトゥカーレ伯アンリ(ブルゴーニュ王朝の祖)と結婚。ポルトガル王アフォンソ1世の母。
エルビラ(en