アルフォンソ5世_(アラゴン王)
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しかしミラノ公へ身代金を支払い、相互支援の密約も取り付けたため釈放され、ナポリ王位獲得のチャンスが再び巡ってきた[5][6][7][8]

釈放後7年間はルネやその妻イザベル・ド・ロレーヌとナポリを奪い合う戦争を繰り広げた。ルネにはエウゲニウス4世の支持があったが、アルフォンソ5世は反ルネ派のナポリ貴族とミラノ公からの支持、およびアラゴン本国の支援で戦い抜き、1442年にルネをナポリから駆逐し、王位を獲得した。翌1443年にボルハの外交交渉でエウゲニウス4世とも和睦、ナポリ王位を承認された。こうしてナポリはアラゴン連合王国に組み入れられた[5][6][7][9]
ナポリ王即位後

ナポリ王国の獲得以後、アルフォンソ5世は死ぬまでナポリに留まり、アラゴンやカタルーニャには戻らなかった。連合王国の中心はナポリへ移り、支持者の地元貴族に特権を与え彼らの勢力を増大させた。一方、各王国に国王が任免出来る総督(副王)を設置、総督を統べる国王顧問会議や司法と行政の中枢にボルハなどアラゴン・カスティーリャ人を登用して支配基盤を固めた。文化も奨励され、アルフォンソ5世は古典文学、フランドル絵画(初期フランドル派)や彫刻などに関心を寄せ、ファン・エイク兄弟やドナテッロなどの作品を収集、キケロウェルギリウスセネカの著作にも親しみ、図書館を造営してサロンを形成、人文主義者のパトロンとして彼らを保護、ナポリの宮廷には文人や芸術家たちが集められ、ルネサンス文化が花開いた。やがてそれはイベリア半島にもルネサンスが普及するきっかけとなった[6][10]

アルフォンソ5世がアラゴンを顧みない態度を取ったことは、アラゴンの混乱を助長させた。アラゴンやカタルーニャの統治は弟フアンと王妃マリアに委ねられたが、フアンがナバラ王になるとマリアが単独の摂政として統治責任が増大した。また、ナポリは元来の領土ではなかったため王領や財政基盤がなく、アラゴン連合王国がナポリへ財政支援して窮乏する羽目に陥り、階層間の対立が深刻化していった。マリアからはアラゴンに戻ってほしいと手紙で懇願されるも、アルフォンソ5世は無視し続けたばかりかイタリアにさらなる紛争を仕掛け、チュニジアエジプト遠征、オスマン帝国の侵略に晒されたバルカン半島の救援(実現せず)、ミラノの後継者争いに介入してフィレンツェと対立(1450年に休戦)、とイタリアの覇権をかけて積極的に動いていった。また、フアンの息子ビアナ公カルロスが父と不仲になると、彼をナポリへ迎え入れている[11]

アルフォンソ5世の下で多大な貢献を果たしたボルハに対してはバレンシア司教任命、枢機卿就任の後押しで報いた。しかし彼が1455年に教皇カリストゥス3世として即位すると、十字軍やイタリアの権益を巡って対立した。奇しくもアルフォンソ5世が死去した1458年にカリストゥス3世も死去した[12]

ともにノルマン・シチリア王国の後継国家であるシチリア王国トリナクリア王国)とナポリ王国の王を兼ねたアルフォンソ5世は「両シチリア王」(: Rex Utriusque Siciliae)を称したが、両王国を再統合したわけではなかった。アルフォンソ5世の死後、甥であるフェルナンド2世(ビアナ公カルロスの異母弟)が1504年に再征服を行うまでの間、ナポリ王国は再び独自の王を戴くことになった[13]

1458年、ナポリで死去した。マリアとの間に嫡子はなく、アルフォンソ5世の死後はナポリ王位を庶子フェルディナンド1世が継承し、アラゴンやシチリアなどの君主位はナバラ王となっていた弟フアン2世が継承した。
脚注[脚注の使い方]^ 立石、P123、関、P180 - P181、西川、P206 - P207。
^ クルーラス、P18 - P22、田澤、P185 - P187、関、P240。
^ a b 西川、P204。
^ 田澤、P187 - P188、澤井、P87、関、P240 - P241。
^ a b c 北原、P217。


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