アルフォンソ13世はしばしば社会改革の努力を行うものの、途絶えることのないテロの中で政府高官は次々に暗殺され、統治の形態はますます旧来の抑圧へ傾斜を深めた。また、社会不安に混沌とする国内を鎮めるため、イタリアに倣い、1923年にはプリモ・デ・リベーラ将軍を登用し、権威主義体制による王権維持を目指した。プリモ・デ・リベーラ失脚後の1931年4月12日に行われた自治体選挙
(スペイン語版)の結果、帝政派578人対し共和派が974人の当選を果たして圧勝[4]。同年4月14日に退位が伝えられると、マドリード市民は窓から国王の肖像画やブルボン王家の紋章を投げ捨て広場で火にくべた[5]。ここに及びアルフォンソ13世は、亡命することを決断。マルセイユを経由して、同年4月16日、列車でパリに到着した。パリの駅では多くの帝政支持者が出迎え、市内に確保されたホテルに入った[6]。後に亡命先のローマで死の直前に退位し、名目上の王位を四男のフアンに譲ったが、スペインが王政復古したのはアルフォンソ13世の亡命から44年後の1975年であり、フアンの息子フアン・カルロスが王位に就いた。
子女アルフォンソ13世の子供たち。左から順にアルフォンソ、ハイメ、ベアトリス。
王妃ビクトリア・エウヘニアとの間に5男2女(3男フェルナンドは死産)を儲けたが、長男アルフォンソと末息子ゴンサーロが血友病に冒された。
アルフォンソ(1907?1938) - アストゥリアス公
ハイメ(1908?1975) - セゴビア公爵
ベアトリス(1909?2002)
フェルナンド(1910)
マリア・クリスティーナ(1911?1996)
フアン(1913?1993) - バルセロナ伯爵、死後に「スペイン王フアン3世」と追号
ゴンサーロ(1914?1934)
アルフォンソ13世の趣味には、自動車の運転、乗馬、狩猟などに加えて、ポルノ映画の鑑賞とセックスがあった[2]。好色な君主だった彼は多くの愛人を抱えていた[2]。
女優カルメン・ルイス・モラガス(スペイン語版)との間に、2人の私生児を儲けている[7]。彼らは王室の称号や敬称を持たないが、王統に連なる者として「ボルボン(=ブルボン)」の姓を使用することを2003年5月に裁判所によって認められた[8]。
マリア・テレサ・デ・ボルボン(1925?1965)
レアンドロ・デ・ボルボン(スペイン語版)(1929?2016)
この他にも何人かアルフォンソ13世の私生児とされる者がいる。
逸話
若いころにフリーメイソンに加入した[9]。
一部のフランス正統王党派(レジティミスト)からはフランス王アルフォンス1世(フランス語: AlphonseT)とされていた。
最後のオーストリア皇帝カール1世は2度の復位運動に失敗した後にスペイン南西方にあるマデイラ島(ポルトガル領)に流され、困窮のあげくに崩御した。カール1世が死んだ夜、どういうわけか「カール1世の妻子たちの面倒を見なくては」という義務感に突如として憑りつかれたという[10]。そのためアルフォンソは未亡人となった皇后ツィタや皇太子オットーらカールの遺族をスペイン国内に招き、宮殿を与えて手厚く庇護した。
1921年3月3日から9月3日までの間に、パリで、日本の皇太子(のちの昭和天皇)と昼食会を共にした(皇太子が御馳走になった)ことがある。このエピソードは長く不明となっていたがアルフォンソ13世の孫のフアン・カルロス1世が1980年に来日した際に、昭和天皇自身が「(皇太子時代の欧州訪問中に)私はあなたのおじいさんにごちそうになったことがあります」と明かしたことをきっかけに詳細が明らかとなり、スペインと日本の関係の緊密化に寄与した[11]。
脚注
注釈^ 父王が崩御した時点ではマリア・クリスティーナ王妃が身ごもった子供の性別が分からないため、胎児の分娩まではいったん王位を空位としたうえで、父王の長女であるマリア王女が暫定的な王位継承権第1位の立場につき、誕生した赤子が男児ならその子が直ちに国王に、女児ならマリアが女王となると事前に決められていた。
出典^ a b c 『スペイン王権史』p.170
^ a b c d e f g 『スペイン王権史』p.171
^ a b 『スペイン王権史』p.176