アルフォンソ・デ・ボルボーン・イ・バッテンベルグ
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1931年4月、共和制成立により王家はフランスへ逃れた[1]

1933年キューバ出身の平民エデルミラ・サンペドロ・イ・ロバト(英語版)と貴賤結婚し、アストゥリアス公の称号と王位継承権を放棄したことで以降彼はコバドンガ伯と呼ばれるようになった。アルフォンソがアストゥリアス公位を返上した後、次弟のハイメが継承するとされていたが、幼少期に受けた手術によって聾唖者となっていたため、アストゥリアス公となることを拒んだ。このため、四弟のフアンが王位継承順位第1位となった。

1937年5月8日にエデルミラと離婚し、同年7月3日に同じくキューバ出身のマルタ・エステル・ロカフォルト・イ・アルトゥザッラ(英語版)と再婚するが、1938年1月8日に再び離婚した。どちらの結婚でも子供を得られなかった。

1938年9月、マイアミで自動車の運転を誤って電話ボックスへ衝突し、病院へ運ばれた。外傷はそれほど酷くなかったものの、血友病患者であったために内出血が命取りとなり、31歳で死去した。

マイアミのウッドローン公園墓地に埋葬されたが、1985年になってエル・エスコリアル修道院へ改葬された。
脚注[脚注の使い方]^ 亡命の前皇帝パリ着、帝政派が出迎え『東京朝日新聞』昭和6年4月17日夕刊(『昭和ニュース事典第4巻 昭和6年-昭和7年』本編p367 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)

先代
アルフォンソ・マリアアストゥリアス公
1907年 - 1931年(1933年)次代
フアン
フェリペ

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