アルバート・ウェデマイヤー
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アルバート・コアディ・ウェデマイヤー
Albert Coady Wedemeyer
アルバート・ウェデマイヤー
生誕1897年7月9日
ネブラスカ州 オマハ
死没 (1989-12-17) 1989年12月17日(92歳没)
バージニア州 フォートベルヴォア(英語版)
所属組織 アメリカ陸軍
軍歴1919 - 1951
最終階級 陸軍大将(退役後)
戦闘日中戦争
第二次世界大戦
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アルバート・コアディ・ウェデマイヤー(Albert Coady Wedemeyer, 1897年7月9日-1989年12月17日)は、アメリカ陸軍の軍人、最終階級は大将

第二次世界大戦後期の中国戦線およびビルマの戦いにおいて米陸軍と国民革命軍を指揮し、日本軍と対峙。大戦後の冷戦期では、ベルリン封鎖に対する空輸作戦の主要な支持者となり、反共主義者の大物の一人としてもてはやされた。
生涯
前半生

アルバート・コアディ・ウェデマイヤーは1897年7月9日に、ネブラスカ州オマハに生まれる。クレイトン高等学校を経て陸軍士官学校(ウェストポイント)に進み、1919年に卒業。1936年から1938年にかけてはドイツ国に派遣され、ベルリンのプロシア陸軍大学校(英語版)に留学する。ベルリン時代のウェデマイヤーはドイツ国防軍の演習を見学し、そこでの戦術的な動きのいくつかが、ウェデマイヤーに「ユニークな形」で影響を与えることとなった。1938年に任期を終えてワシントンD.C.に戻ったあと、さっそくドイツの戦略の分析に取りかかり、戦略目標の研究を行った。この時点でのウェデマイヤーは、アメリカ陸軍内におけるドイツ戦術研究の権威とみなされていたジョージ・マーシャル少将の熱心な学生の一人であった[1]。ウェデマイヤーはまた、戦争計画局副主任で義理の父にあたるスタンリー・エンビック(英語版)中将の後ろ盾もあって、将来のキャリア育成が保障された。1939年の第二次世界大戦勃発後、ウェデマイヤーは中佐に昇進し、陸軍省戦争計画部門の責任者となった。大戦3年目の1941年には、ヨーロッパ戦線におけるドイツ国防軍の敗北を予見し、アメリカの戦争計画を拡大すべきと提唱した『勝利計画(Victory Program)』の主要な著者となった。のちのノルマンディー上陸作戦に発展した計画も、ウェデマイヤーが大筋で計画したものだった。
ビルマおよび中国の戦いウェデマイヤーと何応欽ら国民革命軍将官。重慶にて(1944年10月)。

1943年、ウェデマイヤーは東南アジア戦線(英語版)に赴き、東南アジア連合軍(英語版)総司令官であるイギリス海軍中将ルイス・マウントバッテン伯爵のもとで参謀の一人に選任される。

1944年10月27日、ウェデマイヤーは陸軍参謀総長となっていたマーシャルから、「ジョセフ・スティルウェルに代わって中国戦線のアメリカ軍の指揮を執れ」との電報を受け取った。スティルウェルの後任という新しい任務では、?介石大元帥の参謀長も兼ねることとなった。マーシャルからの電報では他に、国民政府要人としてのウェデマイヤーが特別に行ってもよい任務と禁止事項が記されていた。ウェデマイヤーは、中国戦線での任務は、軍事と外交両面におけるアメリカ要人の「墓場」であると考えていたふしがあり、初期のころは任務について不安があった[2]。実際、ウェデマイヤーがスティルウェルとの事務引継ぎのためにスティルウェルの司令部の入ったところ、スティルウェルがウェデマイヤーと面会することなく司令部を去ったことを知って落胆した。通常、司令官交代の際には後任司令官に対して、状況説明や作戦計画、配下の長所および短所などを徹底的に教え込むことが習慣的になっていたが、この時ばかりは、その習慣が一切なかった[3]。ウェデマイヤーは司令部を徹底的に調査したものの、スティルウェルの下で作成されたであろう作戦計画など一切の記録を見つけることはなかった[3]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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