アルバニア共和国(アルバニアきょうわこく、アルバニア語: Republika e Shqiperise)、通称アルバニアは、東南ヨーロッパのバルカン半島南西部に位置する共和制国家。首都はティラナ。
西はアドリア海に面し、対岸はイタリアである。北はモンテネグロ、北東はコソボ(コソボを独立国と認めない立場からすればセルビア)、東は北マケドニア、南はギリシャと国境を接する。 同国はヨーロッパにおける宗教の特色が色濃い地域の一つとして知られている。 宗教の信者数はオスマン帝国支配などの歴史的経緯から、イスラム教徒である国民が大半を占め、欧州で唯一のイスラム協力機構正規加盟国でもあるが、信仰形態は非常に世俗的である[注釈 1]。 また、キリスト教の正教会やカトリックの信者も少なくない。?オスマン帝国時代アルバニア系人の旗(1453?1793) 正式名称はアルバニア語でRepublika e Shqiperise(アルバニア語発音: [??pu?blika ? ?cip???i?s?]
概要
国名
公式の英語表記はRepublic of Albania([r??p?bl?k ?v al?be?ni?, ??l?be?ni?] リパブリク・オヴ・エルベイニア、オールベイニア)、通称はAlbania(エルベイニア、オールベイニア)。
日本語の表記はアルバニア共和国、通称はアルバニア。漢字による当て字は、阿爾巴尼亜。
シュチパリアとはアルバニア語で「鷲(Shqiponja)の国」を意味し、アルバニア人が鷲の子孫であるという伝説に由来する。これに対し、他称の「アルバニア」はラテン語の「albus(白い)」が語源とされ、語源を同じくするアルビオンと同様アルバニアの地質が主に石灰岩質で白いことから「白い土地」と呼んだことに由来している。
歴史詳細は「アルバニアの歴史」を参照
古代にはイリュリアと呼ばれた。紀元前1000年ごろから、インド・ヨーロッパ語族に属する言語、イリュリア語を話すイリュリア人が住むようになった。イリュリア人は南方の古代ギリシア文化の影響を受け、またいくつかのギリシャ植民地が建設された。
前2世紀にはローマ帝国の支配下となり、東西ローマの分裂においては東ローマ帝国に帰属した。
オスマン帝国領時代詳細は「オスマン帝国統治下のアルバニア(英語版)」を参照
14世紀以降、東ローマ帝国の衰退とともに、幾つかの国に支配された後、オスマン帝国による侵攻が始まる。スカンデルベクにより、一時的に侵攻は阻止され、独立が守られるが、1478年にはオスマン帝国の完全支配下に入った。以降、400年間にわたるオスマン帝国支配の下、アルバニアにおける風俗や風習は多大な影響を受けることとなった。特に地主をはじめとする支配階級によるキリスト教からイスラム教への改宗が相次いだため、同じオスマン帝国支配下にあったブルガリアなどとは異なり、現在アルバニア人の半数以上がムスリムであるといわれる(もっとも、アルバニア人の多くはキリスト教徒から改宗した出自のためか、現在も家にイコン画を飾る風習など、正教会やカトリックとの共通点を多く持つ)。提案されたアルバニア公国の国境線(1912年 - 1914年)
長期にわたるオスマン帝国の支配の影響から「アルバニア人」意識の形成が遅れたが、19世紀末には民族意識(ナショナリズム)が高揚し、1878年のプリズレン連盟(アルバニア国民連盟、プリズレンは現在のコソボにある都市の名)結成以降は民族運動が相次いだ。
独立詳細は「アルバニア公国」、「アルバニア共和国 (1925年-1928年)」、および「アルバニア王国 (近代)」を参照
第1次バルカン戦争の途中、1912年にイスマイル・ケマルらがオスマン帝国からの独立を宣言する。しかし、列強に独立は認められたものの、国境画定の際にコソボなど独立勢力が「国土」と考えていた地の半分以上が削られた(「大アルバニア」を参照)。1914年にドイツ帝国の貴族ヴィート公子ヴィルヘルム・ツー・ヴィートを公に迎え、アルバニア公国となったものの、第一次世界大戦で公が国外に逃亡したまま帰国しなかったため、無政府状態に陥った。
1920年には君主不在のまま摂政を置く形で政府は再建されたが、その後も政情は不安定であり、1925年には共和国宣言を行いアフメド・ゾグーが大統領に就任した(アルバニア共和国)。
その後、ゾグーは1928年に王位についてゾグー1世を名乗り、再びアルバニアには君主政のアルバニア王国が成立した。
1939年4月7日、アルバニアに上陸したイタリア軍は簡単な戦闘の後、全土に進駐し[3]、ゾグーは王妃と共に亡命した(イタリアのアルバニア侵攻)。