1971年には国際連合でアルバニア決議を共同提案して国際社会で中国が確固たる立場を築くのに一役を買うも1972年のニクソン大統領の中国訪問を契機に中華人民共和国がアメリカ合衆国や反共的な国々に接近したことに批判を強め[2][3]、1976年には毛沢東の葬儀に出席するも後継者の華国鋒らが3つの世界論に基づく外交をさらに展開したことに対して中華人民共和国を「第三世界の超大国」にさせることを企んでるとホッジャは非難し[2][4]、1978年にケ小平が改革開放路線を採用すると中国とも断絶し(中ア対立)、アルバニアを鎖国的な体制下に置いた。このためアルバニアの国内開発は停滞し、ヨーロッパの最貧国と呼ばれる状況にまでなった。同時期に西欧各国の左派が採択していたユーロコミュニズム路線や、ユーゴスラビアのチトー主義、同様にソ連と距離を置いていたルーマニアのニコラエ・チャウシェスク、さらに北朝鮮の金日成[5]に対してもマルクス・レーニン主義に反するとホッジャは非難を続け、「世界唯一のマルクス・レーニン主義国家」[6][7]を掲げたアルバニアは孤立を一層深める事になる。
すべてホッジャが自党であるアルバニア労働党のマルクス・レーニン主義、スターリン主義を正統なものと解釈し、他者を修正主義と非難し続けた結果であった。このため各国の共産党の中で反修正主義(英語版)を掲げ、旧来の主張に固執するグループが「アルバニア派」(ホッジャ主義)として分裂する現象も生じた。しかしながら、これらの動きは総じて小グループにとどまった。 1985年にホッジャが死去すると、後継の第一書記はラミズ・アリアが引き継いだ。アリアもしばらくはホッジャの政策を踏襲したが、東欧革命の影響はアルバニアにも及び、1990年から1991年にかけてアルバニアも一党独裁制を放棄して複数政党制が導入され、民主化されることとなった。その過程でアルバニア労働党はアルバニア社会党に党名を変更し、綱領も社会民主主義を内容とするものに一新した。これに反対する少数グループ(ホッジャ夫人を含む)は1991年に改めてアルバニア共産党
ホッジャ以後
脚註[脚注の使い方]^ 1966年のアルバニア労働党第5回大会の記録映像では、同大会に代表を送ったのは以下の各党であったことが確認できる。
社会主義国の政権党のうちでは、中国共産党と、中ソ対立に中立的な立場をとっていた朝鮮労働党、ベトナム労働党、ルーマニア共産党、また南ベトナム解放民族戦線。
党として親中国路線をとっていたインドネシア、ビルマ、マレーの各党。
その他、各国共産党の反修正主義、親中国の分派。[1]
^ a b Hoxha, Enver (1982). Selected Works, February 1966 ? July 1975. IV. Tirana: 8 Nentori Publishing House. pp. 656?668.
^ Hoxha, Enver (1979b). Reflections on China. 2. Tirana: 8 Nentori Publishing House. pp. 166?167.
^ Hoxha, Enver (1985). Selected Works. 5. Tirana: 8 Nentori Publishing House. pp. 617?618, 697?698.
^ Enver Hoxha, "Reflections on China II: Extracts from the Political Diary", Institute of Marxist-Leninist Studies at the Central Committee of the Party of Labour of Albania," Tirana, 1979, pp 516, 517, 521, 547, 548, 549.
^ Hoxha, Enver (1979b). Reflections on China. II. Tirana: 8 Nentori Publishing House.
^ Vickers, Miranda (1999). The Albanians: A Modern History. New York: I.B. Tauris & Co Ltd. p. 203. p. 107