すべてホッジャが自党であるアルバニア労働党のマルクス・レーニン主義、スターリン主義を正統なものと解釈し、他者を修正主義と非難し続けた結果であった。このため各国の共産党の中で反修正主義(英語版)を掲げ、旧来の主張に固執するグループが「アルバニア派」(ホッジャ主義)として分裂する現象も生じた。しかしながら、これらの動きは総じて小グループにとどまった。 1985年にホッジャが死去すると、後継の第一書記はラミズ・アリアが引き継いだ。アリアもしばらくはホッジャの政策を踏襲したが、東欧革命の影響はアルバニアにも及び、1990年から1991年にかけてアルバニアも一党独裁制を放棄して複数政党制が導入され、民主化されることとなった。その過程でアルバニア労働党はアルバニア社会党に党名を変更し、綱領も社会民主主義を内容とするものに一新した。これに反対する少数グループ(ホッジャ夫人を含む)は1991年に改めてアルバニア共産党
ホッジャ以後
脚註[脚注の使い方]^ 1966年のアルバニア労働党第5回大会の記録映像では、同大会に代表を送ったのは以下の各党であったことが確認できる。
社会主義国の政権党のうちでは、中国共産党と、中ソ対立に中立的な立場をとっていた朝鮮労働党、ベトナム労働党、ルーマニア共産党、また南ベトナム解放民族戦線。
党として親中国路線をとっていたインドネシア、ビルマ、マレーの各党。
その他、各国共産党の反修正主義、親中国の分派。[1]
^ a b Hoxha, Enver (1982). Selected Works, February 1966 ? July 1975. IV. Tirana: 8 Nentori Publishing House. pp. 656?668.
^ Hoxha, Enver (1979b). Reflections on China. 2. Tirana: 8 Nentori Publishing House. pp. 166?167.
^ Hoxha, Enver (1985). Selected Works. 5. Tirana: 8 Nentori Publishing House. pp. 617?618, 697?698.