アルトゥル・ニキシュ
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13歳の時には、作曲部門の1等賞(受賞作品は弦楽六重奏)、ヴァイオリン部門の1等賞、ピアノ部門の2等賞など、音楽院の様々な賞を受賞したほか、16歳の時には代役としてウィーン宮廷オーケストラをバックにヴァイオリン・ソロを演奏した[6]

ニキシュは学生の頃から、様々なオーケストラのメンバーとしても活躍していた[6]。1872年には師ヨーゼフ・ヘルメスベルガーの推薦により、リヒャルト・ワーグナーが指揮するオーケストラの一員としてベートーヴェンの『交響曲第3番』を演奏したほか、その1週間後にはバイロイト祝祭劇場の基礎工事の着工式で同じくベートーヴェンの『交響曲第9番』を演奏した[6][11]。ニキシュはこの経験から大きな影響を受けており「ワーグナーがウィーンで指揮した『エロイカ(交響曲第3番)』やバイロイトでの『第九』は、私のベートーヴェンのイメージに、ひいては私のオーケストラの解釈に、決定的影響を与えました。ワーグナーは決して「熟練した指揮者」ではありませんでしたが、彼の「動き」そのものがもう音楽と言えます」と語っている[12][13]。また、1873年にはウィーン宮廷オーケストラに第2ヴァイオリン奏者として参加し、作曲家自身の指揮のもとブルックナーの『交響曲第2番』を演奏した[14]。ニキシュはのちにこの経験を振り返って「私はこの交響曲を弾きながら、たちどころに感動した。そして46年が経った今でも、私はこの曲にたいしても、また他の交響曲にたいしても、同じ感動を覚えている」と述べている[14][15]

18歳の時には、音楽院の卒業演奏会で初めてオーケストラの前に立ち、自作の『交響曲第1番』を指揮した[16][10]。なお、ニキシュは作曲家としても認められていたが、後年「屋上屋を架すことはない」と言って作曲をやめた[16]
ヴァイオリニスト時代ウィーン音楽アカデミーでニキシュに作曲を教えたフェリックス・オットー・デッソフウィーン宮廷歌劇場のヴァイオリニストして活動していたニキシュに、ライプツィヒ市立劇場が合唱指揮者を募集していることを伝えた。

1874年1月1日には、ウィーン宮廷歌劇場の第1ヴァイオリン奏者となった[16]フランツ・リストヨハネス・ブラームスジュゼッペ・ヴェルディアントン・ルビンシテインなどの指揮で演奏をしたが、ニキシュにとってオーケストラ生活は退屈であり、1875年から1876年にかけては8回の無断欠席をした[16][17]。特にイタリアのベルカント・オペラが演奏される際には頻繁にさぼり、ポケットマネーで代役を雇うほどであった[16]。そのため、たびたび生活に窮する有様であった[16]

音楽院時代のニキシュの作曲の師であり、宮廷楽長でもあったフェリックス・オットー・デッソフは、そんなニキシュの様子を気にしており、ライプツィヒ・オペラの監督であるアンゲロ・ノイマン(英語版)から「ライプツィヒ市立劇場が合唱指揮者を募集している」という情報を得ると、ニキシュに声をかけた[16][注 1]。これによりニキシュは、ウィーンを離れて指揮者として活動していく決意をした[16]
ライプツィヒ市立劇場時代

1878年にはライプツィヒ市立劇場の合唱指揮者に就任したが、4週間後にはもう楽長(カペルマイスター)の地位についていた[19][11]


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