アルトゥル・ショーペンハウアー
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^ 母のサロンで会ってからしばしばショーペンハウアーと親しい交渉をもったゲーテであったが、ある会合で二、三の若い女性がショーペンハウアーについて「まるで面白くなさそうなマジメ人間ね」などと批評しているのを小耳にはさむと、「かわいいみなさん、彼をそっとしてあげなさい。彼はわたしたち全員の頭を越して倍ほどにも成長する人です」とたしなめたという。[9][20]
^ 論文の立脚点はゲーテから出発したものの、その方向はゲーテとは反対だったため、彼に純粋な喜びを与えるわけにいかなかった。[9]
^ ゲーテの返事には、「お知らせのあった著書を私は必ずや満腔の関心を寄せながら読むでしょう」とある。[9]
^ 3月ミラノにて受け取った妹アデーレよりの手紙には、「ゲーテさんはあなたの著作を喜んで受け取り、またたく間に読み始めました。……その後オッティリーさん(ゲーテの息子の嫁)のお話によると、ゲーテさんはあの本をいままでけっして見かけなかったような熱心さで読んでいるようです。なかでもお気に召したのは、表現と文体の明朗さだということです」とある。[21]
^ ヴェネチアである婦人と恋に陥り、なまめかしい関係がショーペンハウアーを悩殺する。[9]
^ この際に再会しているゲーテはこのときのショーペンハウアーについて、「多くの人から見誤られている、しかも知るにむずかしい立派な業績をもつ若い人――ショーペンハウアー博士の訪問は私を刺戟し交互の啓蒙へと進ませる」(『年代記』)と記している。[21]
^ この年から多分カロリーネ・リヒター(別名メドン)との愛人関係が始まる。[21]
^ 裁縫女マルクェトに怪我をさせ、裁判の結果彼女の終身扶養の義務を負わせられる。[21]
^ このコレラにより、生涯最大の敵手だったヘーゲルが11月24日に急逝。[23]
^ 第一回の照会は1828年(40歳)。初め750部印刷のうち150はまだ売れず、売れ行き「はなはだしく不良」、数年前に「相当な部数」反故処分、との返事。[22]

出典^ a b c d e 岩波小辞典哲学 P96 岩波書店 1958年
^ “ ⇒ネイティヴによる「Arthur Schopenhauer」の発音”. Forvo. 2013年12月11日閲覧。
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