アルトゥル・ショーペンハウアー
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舞台発音ではショーペンハウエル、ショウペンハウエルとも[2]
生涯
幼少時代少年時代のショーペンハウアー。

アルトゥール・ショーペンハウアーは1788年、富裕な商人であった父ハインリヒと、名門トロジーネル家の出身であった母ヨハンナ・ショーペンハウアーの長男としてダンツィヒに生まれる[3]

1793年(アルトゥール5歳)、ダンツィヒがプロイセンに併合された際に一家はハンブルクへ移住、妹アデーレが生まれた1797年(9歳)には当時の国際語であったフランス語習得のためルアーヴルの貿易商グレゴアール・ド・ブレジメール家に二年間預けられる[3][4]。以後長く友情が続くこととなる、グレゴアールの息子でアルトゥールと同年であったアンティームと親交を結び、この地で幸福な時間を過ごす[3][4]

ハンブルクに帰った1799年(11歳)より約四年間、商人育成のためのルンゲの私塾に通学[3][5]。アルトゥールはギムナジウムへの進学を希望したが、息子を商人にしようとする父に反対される[5]。結局後に商人になるという約束のもとで二年間のヨーロッパ周遊の途にのぼることとなる[5]

1800年(12歳)、家族と共に三ヵ月のプラハ旅行へ、1803?1804年(15?16歳)にはやはり家族と連れ立ってヨーロッパ周遊大旅行(オランダ、イギリス、ベルギーフランス、オーストリア、シュレージェン、プロイセン)へ出ている[5][4]。これらの旅行は父の商用旅行を兼ねておこなわれており、アルトゥール自身の旅日記が残されているが、上流階級との交流や劇場、美術館訪問などが記されていると同時に、路上の物売り、大道芸人、みすぼらしい旅館や居酒屋、旅人たちの労苦、民衆の貧窮、過酷な強制労働、絞首刑の場面など社会の底辺の悲惨と苦しみにも目が向けられ、しばしば激しい衝撃を受けていたことが窺われるが、その多くの感想には早くも厭世主義的な気分や判断がみられる。ただし、「厭世主義」といった言葉は一度たりとも彼の著作には見られない用語であり、厳密に言えば正確ではない。[4][5][6]
学問の道へ

ハンブルクに帰ってきた翌年の1805年(17歳)1月、商業教育を受けるために当時のハンブルクで最も優れた実業家にして、ハンブルク市参事(閣僚に相当)であったイェニッシュの商会に入ったが、4月に父が不慮の死を遂げる[5][7]。1806年(18歳)、伝統あるショーペンハウアー商会が解散すると、義務的に続けられる商業教育と精神的な仕事への渇望との板挟みに会い苦しむようになったが[注釈 1]、原稿を書店に渡した後イタリアに旅立つ[9]。翌1807年(19歳)、既にワイマールに移住していた母からの手紙で、学問の道に進むことへの助言と励ましを与えられ、これがアルトゥールの将来を決定することになる[8][10]。6月にハンブルクを去りゴータのギムナジウムに入り、12月にはワイマールのギムナジウムに転じる[8]。1808年(20歳)、ギムナジウムの校長で優秀なラテン語学者であるレンツにラテン語の会話を習う。[8][注釈 2]

1809年(21歳)、ゲッティンゲン大学に入学し医学部に籍をおきながら、最初の哲学の師となるゴットリープ・シュルツェのもとで哲学を学び、翌1810年(22歳)には哲学部へ移る[8][11][12][13]。かねてよりシェリングに傾倒していた若きショーペンハウアーにシュルツェは、今後の勉強の目標はカントプラトンであり、この二人を十分会得するよう忠告する[14][13][11]。1811年(23歳)、復活祭の休暇にヴィーラントの招きでワイマールを訪れる[13][注釈 3]。秋にベルリン大学に移り、ドイツの国民的哲学者であったフィヒテの下で本格的な哲学研究を始めると、この時期からさまざまな思索を書き留めるようになる[13][15][16]
博士論文から『意志と表象としての世界』へゲーテ。1813年、ゲーテ64歳、ショーペンハウアー25歳のときに母ヨハンナのワイマールにあったサロンにて二人は出会う[17]。ショーペンハウアーの才能を高く評価し、「色彩論」の研究を依頼した際には必要な器具も貸与している[18][17]

1812年(24歳)、ベルリン大学でのフィヒテとシュライエルマッヘルに対する尊敬が軽蔑と否定に変わり、これに反し古典文献学者ヴォルフを学者としても人間としても高く評価する[13]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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