1887年7月末にアデンに戻り、その後、約5週間、カイロに滞在した。病気がちであったため仕事には就かず、地元紙やフランスの新聞などに旅行記やアビシニアに関する記事を寄稿した。1888年に入ると再び兵器取引を企てたが失敗に終わった。フランス出身の貿易商セザール・ティアンと提携し、以後数年は通常の商取引で生計を立てた。妹イザベルが描いた瀕死のランボー(1891年)
1891年、数か月来、右膝の腫瘍に苦しんだ挙句、4月7日に担架でアラールからゼイラに運ばれ、船でアデンに移された。悪性腫瘍が疑われたために帰国。5月にマルセイユに到着し、20日に同地のコンセプシオン病院に入院。25日に右脚切断の手術が行われた。7月に妹イザベルに付き添われてロッシュに戻った。8月23日に再びアデンに向かうためにイザベルとともにマルセイユ行きの列車に乗ったが、病状が悪化したため、コンセプシオン病院に再入院。半昏睡状態が数週間続き、11月10日、全身転移癌により死去[23]、享年37歳。シャルルヴィルに埋葬された。 ランボーは家出を繰り返して家族や大人の権威に反抗した詩人である。「ジャンヌ=マリの手」などに見られるようにパリ・コミューン、革命を支持して支配的政治権力や、「音楽堂にて」のほか多くの詩に見られるようにブルジョワ道徳や既存の秩序に反抗し、そして韻文詩から散文詩、さらには自由詩へと文学の伝統に反抗し、革命の精神を生きた[4]。 多くの評者がそれぞれの立場から多様な、時として矛盾するランボー論を著している。作家・文学研究者のルネ・エティアンブル
評価
日本においては明治末期の上田敏(『上田敏全訳詩集』[36])、永井荷風(『珊瑚集 ― 仏蘭西近代抒情詩選』から、昭和初期の小林秀雄、中原中也、戦後の堀口大學、金子光晴と、優れた文学者によって次々と紹介・翻訳された。これらの作家によるランボー詩集は、現在でも改訂版・新装版が出されている。さらに、1960年代から70年代にかけて、思潮社から刊行された一連の粟津則雄訳のほか、人文書院からは鈴木信太郎・佐藤朔監修『ランボー全集』全3巻が出版された。90年代には宇佐美斉訳『アルチュール・ランボー詩集』、清岡卓行訳『新編ランボー詩集』および青土社から平井啓之、湯浅博雄、中地義和共訳『ランボー全詩集』が加わった。
一方、小林秀雄は、詩を放棄したランボー、貿易商としてのランボーが残した書簡は「彼が往来した沙漠のように無味乾燥」であるとして、この時期の書簡を2、3紹介しており[37]、実際「言葉の新たな可能領域への探検に乗り出すことは二度となかった」[38] としても、ランボーの「アフリカ書簡」から彼の全体像を理解しようとする研究も行われ、日本では鈴村和成の『書簡で読むアフリカのランボー』[39] の他、1988年にはアラン・ボレル(フランス語版)の『アビシニアのランボー』も邦訳されている。 制作年順(正確に特定されていないものが多い)[5] 《初期散文習作
作品
プロローグ (Prologue)
シャルル・ドルレアンのルイ一世宛書簡 (Lettre de Charles d’Orleans a Louis XI)
僧衣の下の心 (Un c?ur sous une soutane)
1869年
孤児たちのお年玉 (Les Etrennes des orphelins)
1870年《前期韻文詩》
テオドール・ド・バンヴィル宛の手紙に書かれた詩
美しい夏の夜に(後に「感覚」と題する)(Par les beaux soirs d’ete…)
オフィーリア (Ophelie)
一ナル女ヲ信ズ(後に「太陽と肉体 (Soleil et chair)」と題する)(Credo in unam)
ジョルジュ・イザンバールに送った詩
海の泡から生まれたヴィーナス (Venus anadyomene)
三度接吻のある喜劇 (Comedie en trois baisers)
ニナを引き止めるもの (Ce qui retient Nina)
オフィーリア (Ophelie)
鍛冶屋 (Forgeron)
音楽堂にて (A la Musique)
ポール・ドメニーに託した《ドゥエ詩帖》
第一詩帖
ニナの返答 (Les Reparties de Nina)
海の泡から生まれたヴィーナス (Venus anadyomene)
92年の死者たち (Morts de quatre-vingt-douze)
初めての宵 (Premiere soiree)
感覚 (Sensation)
首吊りの舞踏会 (Bal des pendus)
びっくり仰天している子ら (Les Effares)
ロマン (Roman)
皇帝の怒り (Rages de Cesars)
悪 (Le Mal)
オフィーリア (Ophelie)