バルデ商事は経営難のためにアデン代理店、ハラール代理店を閉鎖し、新代理店再開後に再びランボーを雇用したが、彼は1885年10月にバルデ商事を辞職し(1856年によりエチオピアに併合された)ショア(フランス語版)王国の貿易商ピエール・ラバチュと契約を締結し、紅海を渡ってタジュラ(ジブチ)に着くと、ショアのメネリク2世との兵器取引のための隊商を編成した。様々な困難に遭い、タジュラを発ったのは翌86年の10月初めであった。隊商を率いて4か月かけてアビシニアの砂漠地帯を越え、1887年2月6日にショア王国の首都アンコベールに到着した。だが、すでに同年1月6日にメネリク2世はハラールを併合して同地に住んでいたため、アンコベールから120キロ先のエントト山までさらに移動しなければならなかった。商取引は結局、失敗に終わった[30]。ランボーがハラール滞在中に住んでいた家は、現在も記念館として残されており、来館者は年間約26,000人、大半が外国人である[31]。
1887年7月末にアデンに戻り、その後、約5週間、カイロに滞在した。病気がちであったため仕事には就かず、地元紙やフランスの新聞などに旅行記やアビシニアに関する記事を寄稿した。1888年に入ると再び兵器取引を企てたが失敗に終わった。フランス出身の貿易商セザール・ティアンと提携し、以後数年は通常の商取引で生計を立てた。妹イザベルが描いた瀕死のランボー(1891年)
1891年、数か月来、右膝の腫瘍に苦しんだ挙句、4月7日に担架でアラールからゼイラに運ばれ、船でアデンに移された。悪性腫瘍が疑われたために帰国。5月にマルセイユに到着し、20日に同地のコンセプシオン病院に入院。25日に右脚切断の手術が行われた。7月に妹イザベルに付き添われてロッシュに戻った。8月23日に再びアデンに向かうためにイザベルとともにマルセイユ行きの列車に乗ったが、病状が悪化したため、コンセプシオン病院に再入院。半昏睡状態が数週間続き、11月10日、全身転移癌により死去[23]、享年37歳。シャルルヴィルに埋葬された。 ランボーは家出を繰り返して家族や大人の権威に反抗した詩人である。「ジャンヌ=マリの手」などに見られるようにパリ・コミューン、革命を支持して支配的政治権力や、「音楽堂にて」のほか多くの詩に見られるようにブルジョワ道徳や既存の秩序に反抗し、そして韻文詩から散文詩、さらには自由詩へと文学の伝統に反抗し、革命の精神を生きた[4]。 多くの評者がそれぞれの立場から多様な、時として矛盾するランボー論を著している。作家・文学研究者のルネ・エティアンブル
評価
日本においては明治末期の上田敏(『上田敏全訳詩集』[36])、永井荷風(『珊瑚集 ― 仏蘭西近代抒情詩選』から、昭和初期の小林秀雄、中原中也、戦後の堀口大學、金子光晴と、優れた文学者によって次々と紹介・翻訳された。これらの作家によるランボー詩集は、現在でも改訂版・新装版が出されている。さらに、1960年代から70年代にかけて、思潮社から刊行された一連の粟津則雄訳のほか、人文書院からは鈴木信太郎・佐藤朔監修『ランボー全集』全3巻が出版された。90年代には宇佐美斉訳『アルチュール・ランボー詩集』、清岡卓行訳『新編ランボー詩集』および青土社から平井啓之、湯浅博雄、中地義和共訳『ランボー全詩集』が加わった。
一方、小林秀雄は、詩を放棄したランボー、貿易商としてのランボーが残した書簡は「彼が往来した沙漠のように無味乾燥」であるとして、この時期の書簡を2、3紹介しており[37]、実際「言葉の新たな可能領域への探検に乗り出すことは二度となかった」[38] としても、ランボーの「アフリカ書簡」から彼の全体像を理解しようとする研究も行われ、日本では鈴村和成の『書簡で読むアフリカのランボー』[39] の他、1988年にはアラン・ボレル(フランス語版)の『アビシニアのランボー』も邦訳されている。