1875年2月13日から独語の習得のためにシュトゥットガルトに滞在した。フランス語の家庭教師をしながらドイツ語を学び『イリュミナシオン』の原稿を完成させた。3月2日、1月16日に出所したヴェルレーヌが、シュトゥットガルトのランボーを訪れた。ヴェルレーヌがランボーとの放浪中に書いた詩は、すでに1874年に『言葉なき恋歌』として出版されていた。ランボーは『イリュミナシオン』の原稿をヴェルレーヌに託し、ブリュッセルにいるヌーヴォーに送って印刷してもらうように依頼した。この原稿はこの後多くの人の手に渡り、1886年にようやくその一部が文芸誌『ラ・ヴォーグ(フランス語版)』に掲載された。ランボーがすでに詩作を放棄し、貿易商人としてアビシニア(現エチオピア)にいた頃のことであり、全原稿が発表されたのは、没後1895年刊行のランボー全集においてである。
ヴェルレーヌとはこれが最後の別れとなった。 1875年以降、ランボーは詩を放棄し、各地を放浪しては病に倒れるなどしてシャルルヴィル(ロッシュ)に戻るという生活を繰り返した。1875年5月にシュトゥットガルトを発って徒歩でアルプス山脈を越えてイタリアに向かった。ミラノに着くと病に倒れ、回復後に中央イタリアに向かってさらに南下したが、6月にリヴォルノのフランス領事によって本国に送還された。ヴェルレーヌ宛のドラエーの手紙によると、スペイン語の習得のためにスペインの軍隊に志願したが、断念してパリに向かった。パリを訪れた母、妹ヴィタリーとイザベルとともに過ごした後、10月にはシャルルヴィルに戻った。12月18日、妹ヴィタリーが17歳で死去。 1876年4月にウィーン、5月にブリュッセルを経てロッテルダムに向かい、ハルデルウェイクで6か月にわたってオランダ領東インドに駐屯する予定の外人部隊に入隊。部隊は6月にジャワ島に向かい、バタヴィア(現ジャカルタ)に到着したが、8月15日に脱走。パリを経て12月にシャルルヴィルに戻った。 1877年、5月中頃にブレーメンで米海軍に志願するが許可されず、ストックホルム、コペンハーゲンを経て12月にシャルルヴィルに戻った。1878年、10月20日、ロッシュを発ってヴォージュ山脈を越えてスイス、ミラノを経てジェノヴァ港に到着[28]。同港からアレクサンドリア(エジプト)行きの船に乗った。キプロス島ラルナカのエルネスト・ジャン&ティアル社に雇用され、採石場の現場監督を務めたが、腸チフスによる発熱のため、翌79年5月にロッシュに戻った。秋にキプロスに戻るためにマルセイユに向かったが、再び発熱し、ロッシュに戻った[23]。 1880年5月に再びキプロス島に渡り、しばらく土木工事現場で働いた後、主に皮革やコーヒー豆を販売する現地のマズラン=ヴィアネ=バルデ商事に雇用され、アデン(アデン湾に面するイエメン共和国の港湾都市)にある代理店に勤務することになった。12月初旬にバルデ商事がアビシニア(現エチオピア)のハラールに新設した代理店に着任するために、隊商とともに同地に到着。1881年から84年にかけて、ハラールとアデンを行き来しながら交易に従事する傍ら、同地を探検した。 一方、1886年に『イリュミナシオン』の一部が文芸誌に掲載される2年前の1884年に、ヴェルレーヌの『呪われた詩人たち
風の靴を履いた男
放浪 1875-78年
貿易商ランボー風刺文芸誌『レ・ゾム・ドージュルデュイ』の表紙画(マニュエル・リュック作、1888年)
バルデ商事は経営難のためにアデン代理店、ハラール代理店を閉鎖し、新代理店再開後に再びランボーを雇用したが、彼は1885年10月にバルデ商事を辞職し(1856年によりエチオピアに併合された)ショア(フランス語版)王国の貿易商ピエール・ラバチュと契約を締結し、紅海を渡ってタジュラ(ジブチ)に着くと、ショアのメネリク2世との兵器取引のための隊商を編成した。様々な困難に遭い、タジュラを発ったのは翌86年の10月初めであった。隊商を率いて4か月かけてアビシニアの砂漠地帯を越え、1887年2月6日にショア王国の首都アンコベールに到着した。だが、すでに同年1月6日にメネリク2世はハラールを併合して同地に住んでいたため、アンコベールから120キロ先のエントト山までさらに移動しなければならなかった。商取引は結局、失敗に終わった[30]。ランボーがハラール滞在中に住んでいた家は、現在も記念館として残されており、来館者は年間約26,000人、大半が外国人である[31]。