アルチュール・ランボー
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この詩では、乗組員を失ってあらゆるものから解き放たれ、海に漂う船そのものが「私」であり、その精神世界であり、未知の世界の壮大華麗、怪異なイメージに酩酊する「見者」としての詩人である[13][14]。まさに高踏派・象徴派のイメージであり、同時にまた、高踏派の詩人らが否定する政治的、思想的なメッセージが込められている。大島博光は、同年3月から5月にかけて起こったパリ・コミューンに対するランボーの熱狂、旧秩序との決別、そして最終的に勝利したブルジョワジーに対する批判を読み取っている[15]アンリ・ファンタン=ラトゥール作『テーブルの片隅』前列左よりヴェルレーヌ、ランボー、ヴァラード、デルヴィリー、ペルタン、後列左よりボニエ=オルトラン、ブレモン、エカール(1872年、オルセー美術館蔵)

ヴェルレーヌ、バンヴィルと知己を得たランボーは、さらに二人が参加する「ヴィラン・ボンゾム(フランス語版)(お人好しの破廉恥漢ども)」の前衛芸術家・文学者らと知り合った。1869年に結成されたこのグループには、詩人、劇作家のレオン・ヴァラード(フランス語版)、エルネスト・デルヴィリー(フランス語版)、カミーユ・ペルタン(フランス語版)、エルゼアール・ボニエ=オルトラン(フランス語版)、エミール・ブレモン(フランス語版)、ジャン・エカール(フランス語版)、フランソワ・コペ、アルベール・メラらのほか、写真家のエティエンヌ・カルジャ(フランス語版)、画家のアンリ・ファンタン=ラトゥール風刺画家のアンドレ・ジルらが参加していた。だが、翌1872年の3月2日に開催されたヴィラン・ボンゾムの晩餐会で口論になり、ランボーがアルベール・メラの仕込み杖でカルジャの手を傷つけた。腹を立てたカルジャはそれまでに撮ったランボーの写真のネガを廃棄した。残ったのは今日ランボーの写真として目にする1枚だけである。また、このとき、ファンタン=ラトゥールはヴィラン・ボンゾムの晩餐会の絵を描くことになっていたが、ランボーの粗暴な振る舞いに嫌気がさしたアルベール・メラが同席を拒んだ。このため、彼が座るはずであった右端(作品名のとおり「テーブルの片隅」)には花瓶が置かれている[16]
ヴェルレーヌとベルギー、ロンドン放浪

グループから追放されたランボーは一旦帰郷したが、まもなくパリに戻り、ヴェルレーヌとともにベルギー、ロンドンを放浪した。情熱的で波乱に満ちた関係の始まりであった。ブリュッセルでは「さくらんぼの実る頃」を作詞したジャン・バティスト・クレマン(フランス語版)や劇作家ジョルジュ・カヴァリエ(フランス語版)などパリ・コミューンの亡命者に度々会っている。これはロンドンでも同様で、同地に亡命したコミュナールのウジェーヌ・ヴェルメルシュ(フランス語版)、ジュール・アンドリュー(フランス語版)、カミーユ・バレール(フランス語版)、『1871年コミューン史』(1876年刊行)[17] を著したプロスペル=オリヴィエ・リサガレー(フランス語版)らに会っており、二人がいかに熱心に革命を支持していたかがわかる[18]

だが、マラルメに「途轍もない通行者」と称されたランボー[19] と違って、ヴェルレーヌはパリに妻マチルドと息子ジョルジュを置き去りにしていた。1872年7月21日、ヴェルレーヌからの手紙で彼がブリュッセルにいることを知ったマチルドは母親とともに同地に向かった。彼を連れ戻すためであった。彼は二人の懇願に応じていったんは列車に乗ったものの、国境のキエヴラン駅通関手続きのために全乗客が下車した際に姿を消してしまった。これがマチルドとの最後の別れとなった。フェリックス・レガメが描いたロンドンのヴェルレーヌとランボー(1872年)

二人は2か月にわたってベルギーを放浪した後、9月7日にロンドンに向かった。ヴェルレーヌの旧友で後に日本文化を紹介した画家のフェリックス・レガメが当時ロンドンに滞在していた。彼もまたコミュナールで亡命中であったが、このとき、ロンドンの街をさまよい歩く二人を描いた素描を数枚残している[20]。たまにフランス語家庭教師をする程度で定職のない二人は、ヴェルレーヌの母親からの送金に頼っていた。このような生活を描いた詩が「飢餓の祭り」である[18]

1872年12月末にランボーは母親の忠告に従って、一旦シャルルヴィルに戻った。ロンドンに一人残ったヴェルレーヌが孤独に苛まれて書いた詩が、堀口大學訳「巷に雨の降るごとく、わが心にも涙降る」で知られる詩である[18]。翌1873年1月に、ヴェルレーヌは母親に手紙を書き、病気のため会いに来てほしい、またランボーにも旅費を送って会いに来るよう伝えてほしいと要求した。こうして再び二人の放浪生活が始まった。二人はロンドン市街地だけでなく、郊外や田舎、ホワイトチャペルイーストエンド地区のような貧民街もくまなく歩き回り、詩に表現した。散文詩集『イリュミナシオン』所収の「都市」はに覆われた「.mw-parser-output ruby.large{font-size:250%}.mw-parser-output ruby.large>rt,.mw-parser-output ruby.large>rtc{font-size:.3em}.mw-parser-output ruby>rt,.mw-parser-output ruby>rtc{font-feature-settings:"ruby"1}.mw-parser-output ruby.yomigana>rt{font-feature-settings:"ruby"0}生(なま)の近代都市」ロンドンを描いた詩である[21]

二人は幾度となく仲違いと和解を繰り返したが、ヴェルレーヌにとっては『言葉なき恋歌』(1874年刊行)、ランボーにとっては『地獄の季節』(1873年刊行)、『イリュミナシオン』(1886年に一部刊行、没後1895年に全編刊行)の制作につながる実りの多い経験であった。だが、二人の生活は結局うまくいかなかった。酒浸りの日々、取っ組み合いの喧嘩、数々の修羅場を潜り抜けた二人は、ついに互いに傷つけ合うだけの関係になる。1873年4月11日、ランボーは一人、母、兄フレデリック、妹ヴィタリーとイザベルがいる故郷のロッシュ農場に戻った。このとき、彼は長い放浪生活で消耗しきったうえに精神的な危機に陥っていた。友人のエルネスト・ドラエー宛に書いた手紙には『異教徒の書』または『ニグロの書』を書いている「私の運命はこの書にかかっている」とある[22]


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