「見者の手紙」では、「見者」という観点から過去の詩人を評価・批判している。このなかで、ボードレールは「第一の見者、詩人たちの王、真の神」とされ、高踏派の詩人ではアルベール・メラ(フランス語版)と「真の詩人」ポール・ヴェルレーヌが「見者」として挙げられている[11]。 同じ頃、ランボーは、シャルルヴィルの知り合いポール=オーギュスト(またはシャルル)・ブルターニュに、彼がパ=ド=カレー県アラスに近いファンプー
高踏派の韻文詩「酔いどれ船」
ヴェルレーヌは当時のランボーの印象を「人としては丈が高く、岩畳で、ほとんど力士の如くであった」「流竄天使のように完全に卵型の顔に櫛を入れない明るい栗色のブロンド、目は淡い藍色で穏やかならぬ光があった」と『呪われた詩人たち(フランス語版)』で語っている。この時のランボーの身長は173cmで(後のオランダ軍入隊時には177cm)骨格の大きい少年であった。
12音節4行詩節全100行の長編韻文詩「酔いどれ船」をヴェルレーヌは絶賛した。この自筆原稿は現存せず、このときヴェルレーヌが筆写した原稿だけが残り、今日に伝えられることになった。この詩では、乗組員を失ってあらゆるものから解き放たれ、海に漂う船そのものが「私」であり、その精神世界であり、未知の世界の壮大華麗、怪異なイメージに酩酊する「見者」としての詩人である[13][14]。まさに高踏派・象徴派のイメージであり、同時にまた、高踏派の詩人らが否定する政治的、思想的なメッセージが込められている。大島博光は、同年3月から5月にかけて起こったパリ・コミューンに対するランボーの熱狂、旧秩序との決別、そして最終的に勝利したブルジョワジーに対する批判を読み取っている[15]。アンリ・ファンタン=ラトゥール作『テーブルの片隅』前列左よりヴェルレーヌ、ランボー、ヴァラード、デルヴィリー、ペルタン、後列左よりボニエ=オルトラン、ブレモン、エカール(1872年、オルセー美術館蔵)
ヴェルレーヌ、バンヴィルと知己を得たランボーは、さらに二人が参加する「ヴィラン・ボンゾム(フランス語版)(お人好しの破廉恥漢ども)」の前衛芸術家・文学者らと知り合った。1869年に結成されたこのグループには、詩人、劇作家のレオン・ヴァラード(フランス語版)、エルネスト・デルヴィリー(フランス語版)、カミーユ・ペルタン(フランス語版)、エルゼアール・ボニエ=オルトラン(フランス語版)、エミール・ブレモン(フランス語版)、ジャン・エカール(フランス語版)、フランソワ・コペ、アルベール・メラらのほか、写真家のエティエンヌ・カルジャ(フランス語版)、画家のアンリ・ファンタン=ラトゥール、風刺画家のアンドレ・ジルらが参加していた。だが、翌1872年の3月2日に開催されたヴィラン・ボンゾムの晩餐会で口論になり、ランボーがアルベール・メラの仕込み杖でカルジャの手を傷つけた。腹を立てたカルジャはそれまでに撮ったランボーの写真のネガを廃棄した。残ったのは今日ランボーの写真として目にする1枚だけである。また、このとき、ファンタン=ラトゥールはヴィラン・ボンゾムの晩餐会の絵を描くことになっていたが、ランボーの粗暴な振る舞いに嫌気がさしたアルベール・メラが同席を拒んだ。このため、彼が座るはずであった右端(作品名のとおり「テーブルの片隅」)には花瓶が置かれている[16]。 グループから追放されたランボーは一旦帰郷したが、まもなくパリに戻り、ヴェルレーヌとともにベルギー、ロンドンを放浪した。情熱的で波乱に満ちた関係の始まりであった。ブリュッセルでは「さくらんぼの実る頃」を作詞したジャン・バティスト・クレマン
ヴェルレーヌとベルギー、ロンドン放浪
だが、マラルメに「途轍もない通行者」と称されたランボー[19] と違って、ヴェルレーヌはパリに妻マチルドと息子ジョルジュを置き去りにしていた。1872年7月21日、ヴェルレーヌからの手紙で彼がブリュッセルにいることを知ったマチルドは母親とともに同地に向かった。彼を連れ戻すためであった。彼は二人の懇願に応じていったんは列車に乗ったものの、国境のキエヴラン駅で通関手続きのために全乗客が下車した際に姿を消してしまった。これがマチルドとの最後の別れとなった。フェリックス・レガメが描いたロンドンのヴェルレーヌとランボー(1872年)
二人は2か月にわたってベルギーを放浪した後、9月7日にロンドンに向かった。ヴェルレーヌの旧友で後に日本文化を紹介した画家のフェリックス・レガメが当時ロンドンに滞在していた。彼もまたコミュナールで亡命中であったが、このとき、ロンドンの街をさまよい歩く二人を描いた素描を数枚残している[20]。