アルチュール・ランボー
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ランボーは幼時に、この厳格・勤勉で気位が高く、非常な敬神家であった母の影響を強く受けたとされる[1]。ランボーについて多くの研究書を発表した作家美術史家のクロード・ジャンコラ(フランス語版)は、2004年に、この「悪名高い」母親とランボーの関係について、特に二人の性格の類似性とそれゆえの反目と愛情に焦点を当てた評伝『ヴィタリー・ランボー ― 息子アルチュールへの愛』を発表している[2][3]11歳のランボー(1866年の初聖体拝領)

1861年、私立のロサ学院(フランス語版)に入学。一家の引っ越しのため、1865年に市立シャルルヴィル高等中学校に転校した。早熟な天才、神童と称されるランボーは、実際、模範的な優等生で、ラテン語の詩などで数々の優等賞を得た[4]。シャルルヴィル高等中学校の同窓生に作家のエルネスト・ドラエー(フランス語版)がいる。彼は後にランボーの詩作や生活に助力し、彼に関する著書を残すことになる。
詩人ランボー
ジョルジュ・イザンバールとの出会い

ランボーが文学の道を志すきっかけとなったのは、1870年1月、彼が15歳のときに修辞学の教師としてシャルルヴィル高等中学校に赴任したジョルジュ・イザンバール(フランス語版)との出会いであった。22歳のイザンバールは革命思想の持ち主でもあり[4]、彼の教養思想などに大きな影響を受けたランボーは、読書に没頭し、詩作を始めた。早くも同年に「孤児たちのお年玉」[5] を文芸誌『ラ・ルヴュー・プル・トゥース』[6] に発表し、5月にはイザンバールの勧めで『現代高踏派詩集(フランス語版)』の編集委員の一人であった詩人・劇作家のテオドール・ド・バンヴィルに「オフィーリア」「感覚」「太陽と肉体」の3編の詩を送り、同詩誌第2集への掲載を懇願した。これらの詩は、実際、バンヴィル、シャルル=マリ=ルネ・ルコント・ド・リールら高踏派の詩に倣ったものだが、とりわけ「感覚」は、伝統的な詩の技法から脱した、ランボー独自の世界を切り開くものとして、後に高く評価されることになる[7][8]
家出と放浪「坐っているやつら」の原稿(1871年)

同年8月、ランボーは家出をして普仏戦争下のパリに向かった。だが、無賃乗車のために北駅で逮捕され(当時リヨン駅の向かいにあった)マザス刑務所(フランス語版)に収容された後、シャルルヴィルに送り返された[4]。この後も数か月の間にさらに2回家出をし、北フランス、ベルギーを放浪しながら「わが放浪」「みどり亭で」「戸棚」「冬の楽しみ」の他「谷間に眠る男」などの戦争に関する詩を書き続けた。うち22編を2冊の手帖に清書して、ドゥエオー=ド=フランス地域圏ノール県)滞在中にイザンバールを介して知り合った詩人ポール・ドメニー(フランス語版)に託した。これらは後に「ドゥエ詩帖(フランス語版)」として知られることになる。

1871年5月13日付のイザンバール宛の手紙 と 1871年5月15日付のドメニー宛の手紙 は、後にランボーの詩人としての宣言文「見者の手紙」として知られることになる。「母音」と並んで最も多く論じられる詩「盗まれた心」を含むイザンバール宛の手紙に、ランボーは次のように書いている。

私は考える、と言うのは誤りです。ひとが私を考える、と言うべきでしょう。洒落を言っている訳ではありませんが。私とは一個の他者なのです[9]

「パリの軍歌」「ぼくのかわいい恋人たち」「うずくまって」の3編の詩が書かれ得たドメニー宛の手紙でランボーは「詩人たらんと望む者が第一に行うべき探求は、自己を認識すること、完全に認識すること」であり、このためには、自己を拘束するすべての既成概念、常識、因習を捨て去り、意味に反する意味を模索し、未知を体系的に探求し、精神・道徳・身体の限界を超えるべきであるとし、さらに次のように宣言する。

詩人は、あらゆる感覚の、長期にわたる、途方もない、筋の通った乱用によって、おのれを見者に作り上げるのです。あらゆるかたちの愛や苦悩や狂気でね。自分自身を探求し、自分の中でいっさいの毒を汲み尽くし、その精髄だけを残しておくのです。これは言語を絶する苦悩ですよ。その場合彼には、欠くるところなき信念と、あらゆる超人的な力が必要になる。そして、何よりもまず、大いなる病者、大きなる罪人、大いなる呪われ人となる、?そして、至高の知者になるんです。―だって、彼は、未知のものに到達するんですからね!?彼が未知のものに到達し、そしてそのとき狂乱して、自分が見たものについての知的認識能力を失ってしまったとき、はじめて彼は、それを真に見たと言えるのです[10]

「見者の手紙」では、「見者」という観点から過去の詩人を評価・批判している。このなかで、ボードレールは「第一の見者、詩人たちの王、真の神」とされ、高踏派の詩人ではアルベール・メラ(フランス語版)と「真の詩人」ポール・ヴェルレーヌが「見者」として挙げられている[11]
高踏派の韻文詩「酔いどれ船」

同じ頃、ランボーは、シャルルヴィルの知り合いポール=オーギュスト(またはシャルル)・ブルターニュに、彼がパ=ド=カレー県アラスに近いファンプー(フランス語版)で出会ったポール・ヴェルレーヌに詩を送るよう勧められた。当時27歳のヴェルレーヌはすでに詩集『サテュルニアン詩集』『艶なる宴』を出版し『現代高踏詩集』第2集にも詩を発表していた。早速、ヴェルレーヌに「びっくり仰天している子ら」「うずくまって」「税関吏」「盗まれた心」「坐っているやつら」の5編の詩を送り、返事を待ちながら「酔いどれ船」の執筆に取りかかった。9月中頃にヴェルレーヌから返事が届いた。


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