アルチュール・ランボー
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ジョルジュ・イザンバールとの出会い

ランボーが文学の道を志すきっかけとなったのは、1870年1月、彼が15歳のときに修辞学の教師としてシャルルヴィル高等中学校に赴任したジョルジュ・イザンバール(フランス語版)との出会いであった。22歳のイザンバールは革命思想の持ち主でもあり[4]、彼の教養思想などに大きな影響を受けたランボーは、読書に没頭し、詩作を始めた。早くも同年に「孤児たちのお年玉」[5] を文芸誌『ラ・ルヴュー・プル・トゥース』[6] に発表し、5月にはイザンバールの勧めで『現代高踏派詩集(フランス語版)』の編集委員の一人であった詩人・劇作家のテオドール・ド・バンヴィルに「オフィーリア」「感覚」「太陽と肉体」の3編の詩を送り、同詩誌第2集への掲載を懇願した。これらの詩は、実際、バンヴィル、シャルル=マリ=ルネ・ルコント・ド・リールら高踏派の詩に倣ったものだが、とりわけ「感覚」は、伝統的な詩の技法から脱した、ランボー独自の世界を切り開くものとして、後に高く評価されることになる[7][8]
家出と放浪「坐っているやつら」の原稿(1871年)

同年8月、ランボーは家出をして普仏戦争下のパリに向かった。だが、無賃乗車のために北駅で逮捕され(当時リヨン駅の向かいにあった)マザス刑務所(フランス語版)に収容された後、シャルルヴィルに送り返された[4]。この後も数か月の間にさらに2回家出をし、北フランス、ベルギーを放浪しながら「わが放浪」「みどり亭で」「戸棚」「冬の楽しみ」の他「谷間に眠る男」などの戦争に関する詩を書き続けた。うち22編を2冊の手帖に清書して、ドゥエオー=ド=フランス地域圏ノール県)滞在中にイザンバールを介して知り合った詩人ポール・ドメニー(フランス語版)に託した。これらは後に「ドゥエ詩帖(フランス語版)」として知られることになる。

1871年5月13日付のイザンバール宛の手紙 と 1871年5月15日付のドメニー宛の手紙 は、後にランボーの詩人としての宣言文「見者の手紙」として知られることになる。「母音」と並んで最も多く論じられる詩「盗まれた心」を含むイザンバール宛の手紙に、ランボーは次のように書いている。

私は考える、と言うのは誤りです。ひとが私を考える、と言うべきでしょう。洒落を言っている訳ではありませんが。私とは一個の他者なのです[9]

「パリの軍歌」「ぼくのかわいい恋人たち」「うずくまって」の3編の詩が書かれ得たドメニー宛の手紙でランボーは「詩人たらんと望む者が第一に行うべき探求は、自己を認識すること、完全に認識すること」であり、このためには、自己を拘束するすべての既成概念、常識、因習を捨て去り、意味に反する意味を模索し、未知を体系的に探求し、精神・道徳・身体の限界を超えるべきであるとし、さらに次のように宣言する。

詩人は、あらゆる感覚の、長期にわたる、途方もない、筋の通った乱用によって、おのれを見者に作り上げるのです。あらゆるかたちの愛や苦悩や狂気でね。自分自身を探求し、自分の中でいっさいの毒を汲み尽くし、その精髄だけを残しておくのです。これは言語を絶する苦悩ですよ。その場合彼には、欠くるところなき信念と、あらゆる超人的な力が必要になる。そして、何よりもまず、大いなる病者、大きなる罪人、大いなる呪われ人となる、?そして、至高の知者になるんです。―だって、彼は、未知のものに到達するんですからね!?彼が未知のものに到達し、そしてそのとき狂乱して、自分が見たものについての知的認識能力を失ってしまったとき、はじめて彼は、それを真に見たと言えるのです[10]

「見者の手紙」では、「見者」という観点から過去の詩人を評価・批判している。このなかで、ボードレールは「第一の見者、詩人たちの王、真の神」とされ、高踏派の詩人ではアルベール・メラ(フランス語版)と「真の詩人」ポール・ヴェルレーヌが「見者」として挙げられている[11]
高踏派の韻文詩「酔いどれ船」

同じ頃、ランボーは、シャルルヴィルの知り合いポール=オーギュスト(またはシャルル)・ブルターニュに、彼がパ=ド=カレー県アラスに近いファンプー(フランス語版)で出会ったポール・ヴェルレーヌに詩を送るよう勧められた。当時27歳のヴェルレーヌはすでに詩集『サテュルニアン詩集』『艶なる宴』を出版し『現代高踏詩集』第2集にも詩を発表していた。早速、ヴェルレーヌに「びっくり仰天している子ら」「うずくまって」「税関吏」「盗まれた心」「坐っているやつら」の5編の詩を送り、返事を待ちながら「酔いどれ船」の執筆に取りかかった。9月中頃にヴェルレーヌから返事が届いた。ランボーの才能を見抜いた彼は「やって来たまえ。偉大な魂よ、われらはきみを呼び、きみを待つ」とパリに来るよう勧めた。手紙には高踏派の詩人たちから集めた旅費が同封されていた[12]。こうして1871年9月、ランボーは「酔いどれ船」を携えて上京し、ヴェルレーヌの義父母のもとに身を寄せることになった。このときランボーは17歳であった。

ヴェルレーヌは当時のランボーの印象を「人としては丈が高く、岩畳で、ほとんど力士の如くであった」「流竄天使のように完全に卵型の顔に櫛を入れない明るい栗色のブロンド、目は淡い藍色で穏やかならぬ光があった」と『呪われた詩人たち(フランス語版)』で語っている。この時のランボーの身長は173cmで(後のオランダ軍入隊時には177cm)骨格の大きい少年であった。

12音節4行詩節全100行の長編韻文詩「酔いどれ船」をヴェルレーヌは絶賛した。この自筆原稿は現存せず、このときヴェルレーヌが筆写した原稿だけが残り、今日に伝えられることになった。この詩では、乗組員を失ってあらゆるものから解き放たれ、海に漂う船そのものが「私」であり、その精神世界であり、未知の世界の壮大華麗、怪異なイメージに酩酊する「見者」としての詩人である[13][14]。まさに高踏派・象徴派のイメージであり、同時にまた、高踏派の詩人らが否定する政治的、思想的なメッセージが込められている。大島博光は、同年3月から5月にかけて起こったパリ・コミューンに対するランボーの熱狂、旧秩序との決別、そして最終的に勝利したブルジョワジーに対する批判を読み取っている[15]アンリ・ファンタン=ラトゥール作『テーブルの片隅』前列左よりヴェルレーヌ、ランボー、ヴァラード、デルヴィリー、ペルタン、後列左よりボニエ=オルトラン、ブレモン、エカール(1872年、オルセー美術館蔵)

ヴェルレーヌ、バンヴィルと知己を得たランボーは、さらに二人が参加する「ヴィラン・ボンゾム(フランス語版)(お人好しの破廉恥漢ども)」の前衛芸術家・文学者らと知り合った。1869年に結成されたこのグループには、詩人、劇作家のレオン・ヴァラード(フランス語版)、エルネスト・デルヴィリー(フランス語版)、カミーユ・ペルタン(フランス語版)、エルゼアール・ボニエ=オルトラン(フランス語版)、エミール・ブレモン(フランス語版)、ジャン・エカール(フランス語版)、フランソワ・コペ、アルベール・メラらのほか、写真家のエティエンヌ・カルジャ(フランス語版)、画家のアンリ・ファンタン=ラトゥール風刺画家のアンドレ・ジルらが参加していた。だが、翌1872年の3月2日に開催されたヴィラン・ボンゾムの晩餐会で口論になり、ランボーがアルベール・メラの仕込み杖でカルジャの手を傷つけた。腹を立てたカルジャはそれまでに撮ったランボーの写真のネガを廃棄した。残ったのは今日ランボーの写真として目にする1枚だけである。また、このとき、ファンタン=ラトゥールはヴィラン・ボンゾムの晩餐会の絵を描くことになっていたが、ランボーの粗暴な振る舞いに嫌気がさしたアルベール・メラが同席を拒んだ。このため、彼が座るはずであった右端(作品名のとおり「テーブルの片隅」)には花瓶が置かれている[16]
ヴェルレーヌとベルギー、ロンドン放浪

グループから追放されたランボーは一旦帰郷したが、まもなくパリに戻り、ヴェルレーヌとともにベルギー、ロンドンを放浪した。情熱的で波乱に満ちた関係の始まりであった。ブリュッセルでは「さくらんぼの実る頃」を作詞したジャン・バティスト・クレマン(フランス語版)や劇作家ジョルジュ・カヴァリエ(フランス語版)などパリ・コミューンの亡命者に度々会っている。これはロンドンでも同様で、同地に亡命したコミュナールのウジェーヌ・ヴェルメルシュ(フランス語版)、ジュール・アンドリュー(フランス語版)、カミーユ・バレール(フランス語版)、『1871年コミューン史』(1876年刊行)[17] を著したプロスペル=オリヴィエ・リサガレー(フランス語版)らに会っており、二人がいかに熱心に革命を支持していたかがわかる[18]

だが、マラルメに「途轍もない通行者」と称されたランボー[19] と違って、ヴェルレーヌはパリに妻マチルドと息子ジョルジュを置き去りにしていた。1872年7月21日、ヴェルレーヌからの手紙で彼がブリュッセルにいることを知ったマチルドは母親とともに同地に向かった。


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