アルゼンチン
[Wikipedia|▼Menu]
□記事を途中から表示しています
[最初から表示]

20世紀に入ってからマイノリティが特にブエノスアイレスで目立たない存在になると、自らをヨーロッパになぞらえて、(ヨーロッパから見れば)「文化のない」アメリカ合衆国や、人種的優越感やラテンアメリカ一の経済大国であったことによる自信により、ラテンアメリカ諸国を見下す傾向と、ラテンアメリカとの連帯よりもヨーロッパとのつながりを重視する傾向があり[46][49]、折からのアルゼンチンの経済的な発展への羨望とあいまって、同国がラテンアメリカ諸国から嫌われる大きな原因となった。純粋な南欧系と比較すると小柄で、風貌も若干異なる人が少なくないことから、先住民系の血も少なからず受け継がれていることがわかるが、それでも現在のところアルゼンチン人の主要意識は白人国家、南米のヨーロッパであることに変わりはない。ただし、マルビナス戦争でヨーロッパ(EC)と敵対し、反対にラテンアメリカ諸国の支援を受けたことから、状況は多少変わってきている[46]

1837年の世代や1880年の世代に代表される19世紀の自由主義者はアングロ・サクソン移民を多く招いてアルゼンチンを非ラテン化したかったようだが、現実的に1871年から1913年までに定着した317万人のヨーロッパ移民としてはイタリア人イタリア系アルゼンチン人)、スペイン人が特に多かった。その他にはフランス人ロシア人ドイツ人オーストリア人イングランド人ウェールズ人クロアチア人ポーランド人ポルトガル人スイス人ベルギー人アイルランド人などが続き、ロシア系はほとんどがアシュケナジムだった。そのほかにはレバノンシリアから移民したアラブ人アラブ系アルゼンチン人)やブラジルなどから再移住した日本人日系アルゼンチン人)、スペイン内戦共和派の亡命者や、第二次大戦前にナチスに追われて逃げてきたドイツからのユダヤ人、そして戦後ナチスの残党として亡命してきたドイツ人などがいる[50][51]
マイノリティ

この節は検証可能参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方
出典検索?: "アルゼンチン" ? ニュース ・ 書籍 ・ スカラー ・ CiNii ・ J-STAGE ・ NDL ・ dlib.jp ・ ジャパンサーチ ・ TWL(2022年12月)
テウエルチェ人の一群 (1832年)

おもなマイノリティとしてパラグアイ、ボリビア、ペルーなどから出稼ぎにきた移民がいるほか、メスティーソユダヤ人アフリカ系アルゼンチン人アジア系アルゼンチン人がおり、先住民としてアンデスにケチュア人アイマラ人、パタゴニアにマプーチェ人テウエルチェ人などがいる。19世紀後半までネグロ川北部に20万人ほどいたパンパの狩猟遊牧インディヘナは、1878年に開始されたフリオ・アルヘンティーノ・ロカ(英語版)将軍の砂漠の征服作戦(英語版)により2万人にまで減少し、以後パンパからはほとんどいなくなった。現在のインディヘナの総人口は42万人になっている。

アラブ系のコミュニティもあり、コミュニティからはカルロス・メネム大統領を出している。大部分のアラブ系アルゼンチン人カトリック教会正教東方典礼カトリック教会などを信仰している。アジア系アルゼンチン人日系、中国系、韓国系、ベトナム系などを合わせて13万人を超える。

ユダヤ人はヨーロッパからのアシュケナジムがほとんどだが、シリアからのセファルディムも15 - 20%ほどいる(詳細はユダヤ系アルゼンチン人を参照)。経済的にユダヤ系の力が強いため、アルゼンチン社会、特に軍部の反ユダヤ主義は根強く、軍事政権下では「汚い戦争」の中で、ユダヤ人イスラエルの兵器で弾圧されるという矛盾も起きた[50]。アルゼンチンへのユダヤ人移民は、モーリス・ヒルシュ男爵(英語版)の基金がスポンサーであった。
不法移民

アルゼンチンの不法移民は大多数が国境を接するボリビア、パラグアイから来ており、少数はペルー、エクアドルルーマニアなどからもやってきている。アルゼンチン政府はこうした不法移民の数を75万人と見積もっている。
都市化

1,200万人が住む大ブエノスアイレス都市圏

110万人が住む大ロサリオ都市圏

大西洋のビーチ、マル・デル・プラタ

ラプラタ市。典型的な計画都市である

アルゼンチンの都市人口率は昔から非常に高く、それは現在まで変わっていない。353万人がブエノスアイレス市に、1,240万人が大ブエノスアイレス都市圏に住んでいる。第2、第3の都市圏はコルドバロサリオであり、それぞれ130万人と110万人の都市圏を構成している[要出典]。

19世紀以降に移民したほとんどのヨーロッパ移民は、大土地所有制が崩れずに入植地の所有権が手に入らなかったため、最終的に都市に落ち着き、仕事や教育などさまざまな機会を得て中間層となっていった。多くは鉄道網に沿って成長していた小都市に住み着いたが、1930年代に入ると小都市から大都市への国内移民が行われた。

1990年代に入り国営鉄道民営化が行われた結果、旅客列車の運行が中止された路線が増え、小規模工業が外国製の安い製品との競争に敗れて消えていくと、田舎町にはゴースト・タウンになるものも現れた。また、"Villa Miseria"と呼ばれる不法占拠の建物密集地(いわゆるスラム)が大都市の空き地に見られるようになり、鉄道民営化以降増加した。国営企業民営化および民間企業破綻で失業した下層労働者と北西部の小さな町からの移住者が最初にそこに家を建て、次にさらに大きな数の近隣諸国からの移民(移民の人々が住民の半数以上を占めるといわれる)がそこに新たに家を建てるか、増築するなどをしながら住んでいる。これらの家の中には電気がひかれ、エア・コンディショナーや冷蔵庫も存在し、営業店舗にもなっている建物もある。ただし、沼地のような場所の上に存在する建物は衛生上に問題があり、密集した環境が犯罪組織の温床になりかねないとして、政府はアパートを建設し、そこに不法占拠の住民を移住させる政策を行っているが、資金不足によりなかなか進んでいない。

アルゼンチンの都市はヨーロッパ移民の影響が反映されているため、非常にヨーロッパ的である。多くの都市はスペイン風に広場を中心に建設され、カテドラルと重要な役所(カビルド)は広場に面して建てられる(ただし、ブエノスアイレスは1850年代以降フランスパリを忠実にモデルにして改造された)。一般的に都市の配置はダメロと呼ばれる碁盤目上であるが、19世紀末にワシントンD.C.をモデルに建設されたラ・プラタ市など近代的な計画都市はこの様式からかけ離れていることもある。

2022年度の都市人口率は92.23%である。[52]
アルゼンチン人移民

20世紀半ばまでは移民受け入れ国だったアルゼンチンも、20世紀中盤以降の社会、経済、政治の混乱により、多くのアルゼンチン人が祖国を離れて海外に移住した。特に国連ラテンアメリカ委員会の報告によると、アルゼンチンからの海外移住者の1,000人のうち191人が大学卒業者であるなど[53]、留学生がそのまま海外移民になってしまうことや、大学卒業者に見合った職業の不足などを原因とした、高学歴者の移民による社会の空洞化が懸念されている。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:278 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef