アルゼンチン
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アルゼンチン人は自国を選良であると思ってきたが[46]、こうした優越感と劣等感はその選良意識の裏返しであり[46]、強い愛国心の称揚の一方で行われる自国への強烈な批判は、国家が自分に十分な誇りをもたせてくれるには足りない存在であることの裏返しである[46]。こうしたことの起きる原因としては、19世紀半ば以来の自由主義化、ヨーロッパ化がアルゼンチン国民全体に受け入れられるような国民文化を育てることができなかったためだといわれている[46]。ただしガウチョのような例外もあり、アルゼンチン人はガウチョであることを誇る[46]
人口詳細は「アルゼンチンの人口統計(英語版)」を参照INDECによる1950年から2015年までのアルゼンチンの人口の推移グラフ

五月革命が起きた1810年に70万人だった人口は、ウルキーサがロサスを打倒した直後の1853年には90万人となり、その時点では純粋な白人は6万人ほどで残りはメスティーソや黒人やインディヘナだった。

カセーロス以降自由主義者の政権はヨーロッパから移民を大量導入すると、アルゼンチンの人口は増加し、1869年の初の公的な人口調査では約175万7,000人だった。その後、1900年には454万3,000人、1930年には1,200万5,000人、1940年には1,416万9,000人、1950年には約1,709万人、1960年センサスでは2,006万5,691人、1975年には約2,538万人、1983年年央推計では約2,963万人となった。2005年の見積もりによると、人口は3,874万7,000人と推測され、これは南米大陸の国家で3番目に多い。

2005年度の人口密度は1km2あたり14人になるが、人口は均衡を持って配分されているわけではなく、特にブエノスアイレス市周辺に集中しており、ブエノスアイレス市では人口密度が1万4,000人/km2になるのに対して、パタゴニアの最南部のサンタ・クルス州では1人/km2以下となる。アルゼンチンは南米で唯一純粋な移民の増加率が0.4%を超える国である[48]

2021年現在では4527.7万人になっている。
移民詳細は「アルゼンチンの移民(英語版)」を参照

19世紀半ばの国家の西欧化=白人化を望んだ自由主義者が勝利し、1853年憲法の第25条や、1876年の移民法の制定によってヨーロッパ移民が大量導入されると、次第に都市からは黒人が、パンパからはインディヘナやガウチョが姿を消し、以降アルゼンチンは白人国家であることを誇り、アイデンティティにするようになった。

20世紀に入ってからマイノリティが特にブエノスアイレスで目立たない存在になると、自らをヨーロッパになぞらえて、(ヨーロッパから見れば)「文化のない」アメリカ合衆国や、人種的優越感やラテンアメリカ一の経済大国であったことによる自信により、ラテンアメリカ諸国を見下す傾向と、ラテンアメリカとの連帯よりもヨーロッパとのつながりを重視する傾向があり[46][49]、折からのアルゼンチンの経済的な発展への羨望とあいまって、同国がラテンアメリカ諸国から嫌われる大きな原因となった。純粋な南欧系と比較すると小柄で、風貌も若干異なる人が少なくないことから、先住民系の血も少なからず受け継がれていることがわかるが、それでも現在のところアルゼンチン人の主要意識は白人国家、南米のヨーロッパであることに変わりはない。ただし、マルビナス戦争でヨーロッパ(EC)と敵対し、反対にラテンアメリカ諸国の支援を受けたことから、状況は多少変わってきている[46]

1837年の世代や1880年の世代に代表される19世紀の自由主義者はアングロ・サクソン移民を多く招いてアルゼンチンを非ラテン化したかったようだが、現実的に1871年から1913年までに定着した317万人のヨーロッパ移民としてはイタリア人イタリア系アルゼンチン人)、スペイン人が特に多かった。その他にはフランス人ロシア人ドイツ人オーストリア人イングランド人ウェールズ人クロアチア人ポーランド人ポルトガル人スイス人ベルギー人アイルランド人などが続き、ロシア系はほとんどがアシュケナジムだった。そのほかにはレバノンシリアから移民したアラブ人アラブ系アルゼンチン人)やブラジルなどから再移住した日本人日系アルゼンチン人)、スペイン内戦共和派の亡命者や、第二次大戦前にナチスに追われて逃げてきたドイツからのユダヤ人、そして戦後ナチスの残党として亡命してきたドイツ人などがいる[50][51]
マイノリティ

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出典検索?: "アルゼンチン" ? ニュース ・ 書籍 ・ スカラー ・ CiNii ・ J-STAGE ・ NDL ・ dlib.jp ・ ジャパンサーチ ・ TWL(2022年12月)
テウエルチェ人の一群 (1832年)

おもなマイノリティとしてパラグアイ、ボリビア、ペルーなどから出稼ぎにきた移民がいるほか、メスティーソユダヤ人アフリカ系アルゼンチン人アジア系アルゼンチン人がおり、先住民としてアンデスにケチュア人アイマラ人、パタゴニアにマプーチェ人テウエルチェ人などがいる。19世紀後半までネグロ川北部に20万人ほどいたパンパの狩猟遊牧インディヘナは、1878年に開始されたフリオ・アルヘンティーノ・ロカ(英語版)将軍の砂漠の征服作戦(英語版)により2万人にまで減少し、以後パンパからはほとんどいなくなった。現在のインディヘナの総人口は42万人になっている。

アラブ系のコミュニティもあり、コミュニティからはカルロス・メネム大統領を出している。大部分のアラブ系アルゼンチン人カトリック教会正教東方典礼カトリック教会などを信仰している。アジア系アルゼンチン人日系、中国系、韓国系、ベトナム系などを合わせて13万人を超える。

ユダヤ人はヨーロッパからのアシュケナジムがほとんどだが、シリアからのセファルディムも15 - 20%ほどいる(詳細はユダヤ系アルゼンチン人を参照)。経済的にユダヤ系の力が強いため、アルゼンチン社会、特に軍部の反ユダヤ主義は根強く、軍事政権下では「汚い戦争」の中で、ユダヤ人イスラエルの兵器で弾圧されるという矛盾も起きた[50]。アルゼンチンへのユダヤ人移民は、モーリス・ヒルシュ男爵(英語版)の基金がスポンサーであった。
不法移民

アルゼンチンの不法移民は大多数が国境を接するボリビア、パラグアイから来ており、少数はペルー、エクアドルルーマニアなどからもやってきている。アルゼンチン政府はこうした不法移民の数を75万人と見積もっている。
都市化

1,200万人が住む大ブエノスアイレス都市圏

110万人が住む大ロサリオ都市圏

大西洋のビーチ、マル・デル・プラタ

ラプラタ市。典型的な計画都市である

アルゼンチンの都市人口率は昔から非常に高く、それは現在まで変わっていない。353万人がブエノスアイレス市に、1,240万人が大ブエノスアイレス都市圏に住んでいる。第2、第3の都市圏はコルドバロサリオであり、それぞれ130万人と110万人の都市圏を構成している[要出典]。

19世紀以降に移民したほとんどのヨーロッパ移民は、大土地所有制が崩れずに入植地の所有権が手に入らなかったため、最終的に都市に落ち着き、仕事や教育などさまざまな機会を得て中間層となっていった。


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