アルゼンチン独立戦争
[Wikipedia|▼Menu]
またホセ・ゲルバシオ・アルティガス(英語版)は、主権の譲渡は全地域に適応され、また連邦制により全地域は統治されるべきであると主張した。三者は互いを敵視していたが、アルゼンチンに中央集権体制と連邦制のどちらを採用するかについての争いは、独立戦争後もアルゼンチン内戦(英語版)となり続いた。[5]
戦闘

最高議会(英語版)は副王領首都としての影響力と新体制への支持を勝ち取るために、前副王領内で攻撃を繰り返し、リオ・デ・ラ・プラタ諸州連合の影響圏を決定づけた。連合はパラグアイと早期に不可侵条約を結び、ほとんどの戦いはアルト・ペルーとバンダ・オリエンタルで行われた。この後5年間に連合はモンテビデオを占領したが、アルト・ペルーでは膠着状態が続いたため、西のチリへと戦線を広げた。[6]
初戦

ブエノスアイレスの革命政府はまず前副王サンティアゴ・デ・リニエルスが反革命運動を組織するコルドバと五月革命に賛同しないパラグアイ州に攻撃を行った。

リニエルスは、コルドバで募った兵士が戦闘前に逃亡したため、アルト・ペルーに亡命し、五月革命鎮圧のためのペルー副王領軍に加わろうと試みたが、1810年8月6日、反革命運動の他の首謀者と共に革命政府のフランシスコ・オルティズ・デ・オカンポ大佐に捕らえられた。しかし、大佐が指令通りにリニエルスらを処刑せず、捕虜としてブエノス・アイレスに送ったため、オカンポ大佐は降格され、フアン・ホセ・カステリイ(英語版)が軍の指揮官に任命された。8月26日に、彼はコルドバの捕虜を処刑し、北方面軍(英語版)を率いてアルト・ペルーを攻撃した。

第一次アルト・ペルー戦役(英語版)(1810-1811)

北西地域において、ブエノス・アイレスへの代議員選挙を行い五月革命への支持を確保したのち、カステリイはアントニオ・ゴンザレス・デ・バルカルセ(英語版)大佐をアルト・ペルーに派遣したが、彼の軍はコタガイタの戦い(英語版)で敗北した。カステリイは援軍を派遣し、スイパチャの戦い(英語版)で革命政府にとって初の勝利を勝ち取り、アルト・ペルーを支配下に置いた。王党派の指揮官ビセンテ・ニエルト(英語版)、フランスシスコ・デ・パウラ・サンス、ホセ・デ・コルドバ・イ・ロハス(英語版)はこの時捕虜となり、処刑された。

カステリイはブエノス・アイレス政府にデサグアデーロ川(英語版)を渡河し、ペルー副王領を侵攻することを提案したが、政府は却下した。カステリイとゴイェネチェの部隊は国境付近に駐屯していたが、ゴイェネチェの部隊は前進し、ウアキの戦い(英語版)で敗北し、部隊は潰走した。しかし、アルト・ペルーの独立主義者ゲリラリパブリケタス(英語版)が王党派を食い止め、南への前進を防いだ。

パラグアイ戦役(英語版)(1810-1811)

ブエノス・アイレス政府はマヌエル・ベルグラーノ率いる民兵をパラナ川沿いにパラグアイ州へ派遣した。始めカンピチュエロの戦い(英語版)では勝利したものの、パラグアリの戦い(英語版)とタクアリの戦い(英語版)で完敗を喫した。この戦役は軍事的観点からは失敗に終わったが、数か月後、パラグアイはアルゼンチンに倣い、独立国家となり本国との関係を断った。

第一次バンダ・オリエンタル戦役(1811)

再攻撃

パラグアイ、アルト・ペルー戦役での敗北により、1811年9月革命政府は第一三頭制府(英語版)に政権の座を奪われた。この政府はナポレオン戦争を戦い本土から到着して間もないホセ・デ・サン・マルティンを中佐にあて北方面軍(英語版)を再編し、アルト・ペルーへの新たなる攻撃を決定した。サン・マルティンは統率の取れる正規軍騎兵隊を創設するよう命令され、その騎兵隊は騎乗擲弾兵連隊(英語版)と呼ばれた。

第二次アルト・ペルー戦役(英語版)(1812-1813)

政府はマヌエル・ベルグラーノを北方面軍の指揮官にあてた。ピオ・デ・トリスタン(英語版)率いる王党派軍の度重なる侵攻にたいし、ベルグラーノは焦土作戦を使用することを決め、フフイサルタの市民の退去と、物資や捕虜を渡さないために都市の破壊を命じ、この行動はフフイ追放(英語版)として知られるようになった。

ベルグラーノは政府の指示に反しトゥクマンで王党派軍と戦闘し勝利した。さらにサルタの戦い(英語版)で決定的な勝利を納め、王党派軍の大部分に武器を放棄させた。この時、サラマンカ大学での同期だったトリスタンの部隊は解放された。しかし、ヴィリカプヒオの戦い(英語版)とアヨウマの戦い(英語版)で敗北し、フフイへの撤退を強いられた。

第二次バンダ・オリエンタル戦役(英語版)(1812-1814)

1812年の初め、ブエノス・アイレスとモンテビデオ間の不可侵条約が失効したため、マニュエル・デ・サラテア(英語版)を指揮官としてバンダ・オリエンタルへの攻撃が開始されたが、指揮官は間もなくホセ・ロンデアウ(英語版)が代わり、第二次モンテビデオ包囲(英語版)を開始した。王党派軍のガスパル・デ・ヴィゴデット(英語版)が包囲を解こうと試みたものの、セリートの戦い(英語版)で敗北した。

そこで、王党派海軍は陸上封鎖を回避しようと、ウルグアイ川西岸地域への襲撃を行った。1813年1月31日、モンテビデオの王党派部隊がサンタ・フェ州サン・ロレンソへ上陸した。しかし、同年2月3日にこの部隊はサン・マルティン率いるグラナデーロス部隊により壊滅させられた。このサン・ロレンソの戦いの後、王党派によるパラナ川西岸への襲撃はなくなり、サン・マルティンは政府により軍司令官の地位を与えられた。

グラナデーロス部隊は後の11月8日革命(英語版)においても重要な役割を果たした。この革命により、第一次三頭制治が打倒され、第二次三頭政治(英語版)が始まった。新政府はより独立主義的であり、独立宣言のために13年会合(英語版)を招集した。しかし、会合ではまず三頭政を廃止しラプラタ連合州最高長官(英語版)の地位を創設し、ヘルバシオ・アントニオ・デ・ポサーダス(英語版)をその地位に選出した。

ポサーダスは就任後、1814年3月1日にフアン・ラレーラ(英語版)の資金援助により艦隊を初めて創設し、ウィリアム・ブラウン を艦隊の司令長官に任命した。急造の連合州艦隊は、その困難にもかかわらず、1814年5月14日王党派艦隊と交戦し(英語版)三日のうちに王党派艦隊を撃破した。この勝利によって、ブエノス・アイレス湾港の安全が確保され、モンテビデオは籠城戦に屈し1814年6月20日に陥落した。
独立へ

モンテビデオの陥落により、バンダ・オリエンタルでの王党派の脅威はなくなり、リオ・デ・ラ・プラタ副王領の実際の解散が決定づけられた。ウィリアム・ブラウンは提督に昇級し、モンテビオ陥落の数日前に包囲の責任者に任命されたカルロス・マリア・デ・アルベアル(英語版)が叔父の後を継ぎ連合州最高長官となった。しかし、軍の反感を買い、イグナシオ・アルバレス・トマス(英語版)が兵士の反乱によってその地位に就いた。アルバレスはアルベアルをロンデアウに変わり北方面軍の指揮官に任命したが、実務上はロンデアウが指揮権を握っていた。

第三次アルト・ペルー戦役(英語版)(1815)

ホセ・ロンデアウ率いる北方面軍は、アルバレス最高長官の正式な承諾なく1815年にアルト・ペルーへの新たな攻撃を開始した。しかし、そのために軍の規律はとれず、マルティン・ミゲル・デ・グェメス(英語版)率いるサルタ州軍の支援も失った。この後のベンタ・イ・メディアとシペ・シペでの敗北により、連合州はアルト・ペルーの北部を失ったが、グェメスの"ゲリラス"が王党派の更なる全身を食い止めた。

第三次アルト・ペルー戦役での敗北により、欧州では五月革命終結の流言が流れ、さらに1815年にフェルディナンド7世が王位に戻ったため、連合州の政治的地位を確立させることが急務となった。

1816年7月9日、連邦同盟を形成するサンタ・フェエントレ・リオスコリエンテスバンダ・オリエンタルを除いた、3人のアルト・ペルーからの代表者を含んだ州代表者によるトゥクマン会合(英語版)が開かれ、連合州の独立と、憲法の条文が発表された。
アンデス山脈戦役(1814-1818)旗を巻いたホセ・デ・サン・マルティン .

ホセ・デ・サン・マルティン将軍は1814年にアルト・ペルーへの新たな攻撃を計画し北方面軍の指揮官に就いたものの、更なる敗北を予想し間もなく辞任した。マルティンはキトとリマの王党派を打倒するためにはまずチリを攻撃すべきだとするトーマス・マイトランド(英語版)の著作を受け、チリからペルー副王領を攻める戦略を考案した。

サン・マルティンはクヨ州知事になり、チリ戦役への準備を始めた。メンドーサに到着後、連合州市民とチリからの亡命者から成るグラナデーロス部隊をアンデス方面軍に編入した。

1817年前半、サン・マルティンはアンデス越山(英語版)を組織し、同年2月17日チャカブコの戦い(英語版)で決定的勝利を納め、サンティアゴ・デ・チリを占領した。サン・マルティンは、当初の目的であるリマ占領に集中するため、チリ知事となる提案を拒み、代わりにベルナルド・オイギンスを知事にたてた。12月には、チリの独立に関する国民投票が行われた。

しかし、王党派はマプチェ族と同盟し、チリ南部で抵抗運動を行った。連合州軍大佐フアン・グレゴリオ・デ・ラス・エラス(英語版)が4月4日にコンセプシオンを占領したものの、王党派はタルカウアノに南下し抵抗を続けた。1818年の初めにはマリアノ・オソリオ(英語版)率いるペルー副王領からの増援が到着した。そこでサン・マルティンは防衛が不可能であると見たコンセプションからの撤退を命じ、焦土作戦を実行した。チャカブコの戦いの一年後である同年2月に、チリは独立を果たした。

同年4月、オソリオの部隊はラプラタ連合州・チリ共和国連合軍に奇襲し(英語版)、連合軍は多くの犠牲者を出し、サンティアゴに撤退した。また混乱の中、チリ最高長官のオーヒギンスが戦死したという誤解が生じ、連合軍にパニックを生じさせた。カンチャ・ラヤーダの戦いの後、オーヒギンスはマイプ平原での会議において軍の指揮権を全てサン・マルティンに渡した。そして、同年5月、サン・マルティンはマイプの戦い(英語版)でオソリオに対し決定的勝利を納め、王党派軍はコンセプションに撤退し、その後サンティアゴへの攻撃を行うことはなかった。

その後の対ペルー攻撃はチリの名によって行われたため。チリ戦役がアルゼンチン独立戦争の終結させたとされている。ただ、1825年のアヤクチョの戦い(英語版)により王党派が壊滅するまで、北部国境での防衛戦は続いた。
記念日

5月25日のDia de la Revolucion de Mayo(五月革命の日)が、重要な出来事である、初の政府樹立を祝うために制定されている。この週は、起きた他の出来事も含め、Semana de Mayo(五月の週)と呼ばれている
注釈^ Camogli, p. 23
^ Camogli, p. 24
^ Camogli, pp. 26?27


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:30 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef