9月上旬、サラディンは小規模な襲撃を続けるだけでは十字軍の進撃を止められないことを理解した。十字軍を食い止めるためには彼は全軍を率いた総攻撃を敢行する必要があった。そんな中、サラディンに好機が訪れた。十字軍は進軍経路上、パレスチナに存在する数少ない森林地帯を通過しなければならなかったのだ。この森はアルスフの森と呼ばれており、地中海沿岸沿いに20キロ以上も続く長い森林地帯であった。この森林地帯のおかげで、サラディンは自身の大軍を十字軍から隠すことができ、彼らに対して大規模な急襲を敢行することが可能となったのだ[15][16][17]。
十字軍はそのまま進軍し、アルスフの森に入った。そして半分ほど過ぎたところでちょっとしたゴタゴタが起き、9月6日には森の中で陣を張って休息を取った。彼らは湿地帯に守られたポレグ川(英語版)河口のRochetailleeと呼ばれる中洲に陣を張った。十字軍はその野営からアルスフにある廃墟と化した砦に向かうまで約10キロほど南進する必要があった。そして途中で森林は内陸部へと後退し、海岸線と森林地帯の間に1.5~3キロほどの細長い平地が現れる場所が存在した。サラディンはこの細長い平地を決戦の場にしようと考えていた。そして彼は十字軍の長い隊列に対して散兵を用いた小規模な襲撃を繰り返しつつ、ムスリムの本隊を背後に待機させた。彼の作戦は、「十字軍の後方部隊の進軍を許しつつ、頻繁に攻撃を受ける十字軍後方部隊と十字軍前方部隊との間に致命的な裂け目を生じさせた上で、背後に待機させた本隊を動員して分裂した2つの十字軍部隊を各個撃破する」といった計画であったと考えられている[18]。 第3回十字軍についての当時の散文詩 『リチャード王の旅路
決戦
両軍の規模の推定
戦闘順序と展開アルスフの戦いの戦闘経過図
Aマーク:十字軍の歩兵・兵站部隊
Bマーク:テンプル騎士団
Cマーク:アンジュー部隊
Dマーク:ポワトゥー部隊
Eマーク:イングランド・ノルマン部隊(軍旗)
Fマーク:ホスピタル騎士団
Gマーク:歩兵
Hマーク:トルコ人散兵部隊
Iマーク:サラディン本隊
9月7日の夜明け頃、サラディン軍の斥候が十字軍の隊列の全方位に存在することを目視したリチャードは、サラディンが先方の森林地帯に潜んでいることをそれとなく察知した。リチャード王はムスリム軍の急襲に備えて、自軍の隊列・配置に特に腐心した。十字軍の長い隊列の内、非常に危険とされていた前方部隊と後方部隊は騎士団が担った。騎士団員は聖地で豊富な戦闘経験を積んでおり、最も鍛錬されていた戦士であることは言うまでもない。またこれらの前方・後方部隊は、サラディンが率いているムスリム軍の主力をなす騎射部隊と似たような戦い方を得意とするトルコ人騎馬傭兵(英語版)を唯一備えていた[23]とされる。
十字軍の前方部隊はロベール・ド・サブレ総長(英語版)率いるテンプル騎士団で構成されていた。そして後にはリチャード王配下のアンジュー人やブルターニュ人、そして名ばかりのエルサレム王ギー・ド・リュジニャンを含むポワティエ人の部隊が続き、その後はイングランド・ノルマン部隊が続いた。このイングランド・ノルマン部隊はカロッキオ(英語版)と呼ばれる巨大な祭壇に掲げられた大きな軍旗を有していた。十字軍の中央部隊はフランス人やフラマン人、十字軍国家の軍勢に加えその他のヨーロッパ諸国からの軍勢で構成されていた。十字軍後方部隊はガルニエ・デ・ナブルス(英語版)総長率いるホスピタル騎士団で構成されていた。十字軍の隊列は12個の部隊に分けられ、それらの部隊の幾つかが集結して大きな5つの軍団を構成していた。しかしその軍勢の内訳や正確な所属名簿などは残っていない。また本隊とは別に、シャンパーニュ伯アンリ2世率いる別動隊が斥候として周辺の捜索を行い、リチャード王・フランス王国の全権公使ユーグ3世と彼らに選び抜かれた騎士部隊は十字軍の隊列に沿って前後に駆け巡り、サラディン軍の様子を確認すると共に自軍の隊列が命令通りに組まれているか確認していた[24][25]。