アルジェリア
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漢語表記は、阿爾及利亜または阿爾及。

アラビア語の国名は、首都アルジェのアラビア語名 ??????? (アル=ジャザーイル) に由来する。両者ともに同じ綴り・発音で、国名については「アルジェがある国」のような意味合いを持つ。オスマン帝国時代にアルジェ含む一帯を都市と同名で呼んだのが起源で、南方の砂漠地帯と共にフランス領となった際にもその呼び名が引き継がれた。

英語名 Algeria は、アルジェのフランス語名である Alger に地名語尾の -ia を付して作られたもので、「アルジェの国」のような意味合いを持つ。

末尾に「人民共和国」とあるが、これはかつて社会主義標榜していたからであって、現在は実質的に社会主義を放棄している。
歴史詳細は「アルジェリアの歴史」を参照
古代アルジェリア

新石器時代の住人は、タッシリ・ナジェール遺跡を遺した。紀元前には内陸部にベルベル人が存在した。沿岸部にはカルタゴ植民都市が存在したが、ポエニ戦争を経てカルタゴは滅亡。ベルベル人のヌミディア王国ユグルタ戦争ローマ内戦を経て、最終的にユリウス・カエサルの征服によってローマ共和国属州となった。その後、ゲルマン系ヴァンダル族東ローマ帝国の征服を受けた。
イスラーム帝国期

8世紀にウマイヤ朝などアラブ人イスラーム勢力が侵入し、イスラーム化した。アルジェリアには内陸部にルスタム朝が栄え、イスラーム化と共に住民のアラブ化も進み、11世紀のヒラール族の侵入によって農村部でのアラブ化が決定的になった。

イスラーム化した後もある程度の自治は保ち続けた。西から進出したムラービト朝ムワッヒド朝の支配を経た後に、1229年にハフス朝が成立。1236年にトレムセンを都としたザイヤーン朝が成立した。
オスマン帝国領アルジェリア期詳細は「オスマン帝国領アルジェリア(英語版)」および「バルバリア海岸」を参照

16世紀に入ると東からはオスマン帝国の、西からはスペイン帝国の進出が進み、1533年にはアルジェを根拠地とした海賊バルバロッサがオスマン帝国の宗主権を受け入れた。1550年にオスマン帝国はザイヤーン朝を滅ぼした。オスマン帝国の治下ではトルコ人による支配体制(オスマン帝国の属州という形であったが、実際にはエジプトのムハンマド・アリー朝のような提督による間接支配に相当)が築かれ、アルジェのデイは沿岸のキリスト教国の船をバルバリア海賊を率いて襲撃していた。

これに対してアメリカ合衆国が武力行使し、第1次バーバリ戦争(1801年 - 1805年)。第2次バーバリ戦争1815年)と一連のバーバリ戦争が勃発。1816年8月27日には西欧諸国によるアルジェ砲撃が起きた。
フランス領アルジェリア期フランス人のアルジェリア征服に抵抗したアブド・アルカーディル(アブデルカーデル)詳細は「フランス領アルジェリア」を参照

1830年フランスがアルジェを占領した。フランスによる征服に対してアブド・アルカーディルが激しく抵抗したが、1847年にフランスは全アルジェリアを支配した。アルジェリア北岸にはアルジェ県、オラン県コンスタンティーヌ県が置かれ、これら三県はフランス本土と同等の扱いを受け、多くのヨーロッパ人がフランス領アルジェリアに入植した。

1916年トゥアレグ族の貴族Kaocen Ag Mohammedが、トゥアレグ族居住地域内のアガデスで蜂起した(en:Kaocen Revolt)。フランス軍が鎮圧したものの、第一次世界大戦が終わると独立運動が激化し始めた。

第二次世界大戦中の1942年のトーチ作戦以降は反ヴィシー政権の拠点となり、シャルル・ド・ゴールを首班とするフランス共和国臨時政府もアルジェで結成された。第二次世界大戦が終結すると独立運動が再び激化し始めた。1954年には現地人(アンディジェーヌ)と入植者(コロン)の対立に火が付きアルジェリア戦争が勃発、100万人に及ぶ死者を出した。アルジェリア戦争中の1960年代にはサハラ砂漠フランスの核実験が行われた。「ジャミラ・ブーパシャ」も参照。
独立

1962年7月5日にアルジェリア民主人民共和国として独立を達成し、8月4日に誕生した初代のベン・ベラ大統領は社会主義政策を採り、キューバ革命後のキューバと共に非同盟運動と世界革命路線を推進した。一方、独立によってトゥアレグ族居住地がアルジェリアとマリニジェールに分割されていたが、域内アガデス州アーリットアクータ鉱山から産出する、冷戦下で重要性が高まっていたウランを巡って、第1次トゥアレグ抵抗運動(英語版)(1962年-1964年)が勃発した。産出するウランの一部は日本に出荷されている。1963年10月、西サハラ国境(ティンドゥフ県ベシャール県)をめぐる砂戦争(英語版)でモロッコと交戦した。

1965年にウアリ・ブーメディエン(英語版)が軍事クーデターでベン・ベラ政権を打倒し、ベン・ベラを幽閉した。ブーメディエンは、現実的な国造りを進め、社会主義政策に基づいて経済成長を達成した。1976年1月、西サハラのアムガラ(英語版)でモロッコと交戦(第1次アムガラの戦い (1976年)(英語版))し、西サハラ戦争(英語版)(1975年 - 1991年)にサハラ・アラブ民主共和国1976年2月独立)側で参戦した。1978年にブーメディエンが死去した後、1980年代に入ると民族解放戦線(FLN)の一党制によるアラブ人主導の国造りに対して、ベルベル人からの反発が高まった。

進行していた経済危機の影響もあって1989年に憲法が改正され、複数政党制が認められた。1980年代後半からシャドリ・ベンジェディード(英語版)政権でのFLNによる一党制や経済政策の失敗に不満を持った若年層を中心にイスラーム主義への支持が進み、1991年の選挙でイスラム原理主義政党のイスラム救国戦線(英語版)(FIS)が圧勝したが、直後の1992年1月世俗主義を標榜した軍部主導のクーデターと国家非常事態宣言によって、選挙結果は事実上無効になった。このクーデターにより国内情勢は不安定化し、軍とイスラム原理主義過激派の武装イスラム集団(GIA)とのアルジェリア内戦1991年12月26日 - 2002年2月8日)により10万人以上の犠牲者が出た。


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