アルカーイダ
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2005年8月13日、インデペンデント紙は7月7日の爆弾犯はアルカーイダの首謀者からは独立して行動したと報道した[44]

911事件の準備段階において4年間オサマ・ビン・ラディンのボディーガードだったナーサル・アル・バフリは当時の集団がどのように機能していたか、アルカーイダの組織的な管理の仕組みや膨大な武器について記憶をもとに詳細に書き記している[45] 。一方、 著作家のAdam Curtisは「アルカーイダ」は2001年に行われたアメリカ大使館爆破事件に関する裁判の過程で作られた用語だと主張している。現実はビン・ラディンとアイマン・アル・ザワヒリが、新しい戦略に魅了された幻滅したイスラム過激派のゆるい連合の中心になっていたということでした。しかしそれは組織ではありませんでした。自分たちで活動の大半を計画し、ビンラディンに資金と支援を求めた過激派が居るだけでした。ビン・ラディンは彼らの指揮官ではありません。またビン・ラディンは9月11日の攻撃の後までグループの名前に「アルカーイダ」という用語を使ったという証拠はありません。アメリカ人がそのように命名したことにビン・ラディンが気づいたので、ビン・ラディンも使用するようになったのです[46]

2001年の裁判中に、米国司法省はRICO法(組織犯罪)によってビン・ラディンを欠席裁判にかけるために、ビン・ラディンが犯罪組織の指導者であることを示す必要があった。組織名と詳細な組織構造についてはジャマル・アル・ファドル(Jamal al-Fadl)が証言を行った。ジャマル・アル・ファドルはグループの創設メンバーであり、ビンラディンに雇用されていたと述べた[47]。しかしアル・ファドルの証言の信頼性については多くの情報源が疑問を呈した。彼には不誠実な前歴があり、米軍施設攻撃の共謀罪で有罪判決を受けた後に司法取引の一部として述べた証言だったからである[48][49]。 アル・ファドルを弁護した弁護人サム・シュミット(Sam Schmidt)は次のように述べている。アル・ファドルの証言には、私が間違っていると思う部分があります。彼はアメリカ人が団結できるような構図を支持しました。彼はこの組織が何であるかについての統一されたイメージについて多くの証言で具体的な嘘をついたと思います。それはアルカーイダを新たなマフィアか共産主義者にしました。それによって集団として識別できるようになり、ビン・ラディンが行った行為や声明とアルカーイダを関連付けて、誰でも簡単に訴追できるようになりました[46]

アル=カーイダの実態は不明点が多く、現在では、アル=カーイダが一つのまとまった組織なのかどうかで議論が分かれる。CIA元工作員でイスラム主義組織の専門家マーク・セイジマン(Marc Sageman)によると「アル=カーイダとは、軍隊のような明確な階級が存在する指揮命令系統の組織ではなく、人々が自発的に集合する社会運動のようなものであって、明瞭な境界や構成員が存在しない」とする。特に2001年のアメリカ軍によるアフガニスタン侵攻以降についてはビン=ラーディンの指揮によるものではなく、地域ごとに自発的に集まった人々によってアル=カーイダの名の下に勝手にテロが行われていると指摘した[50]

また、軍事力は明確なターゲットに対しては有効であるが、アメリカ軍と同盟国によってそれらが破壊され組織が拡散してしまった現在では、軍事力の行使とは異なる対策、すなわち人々が暴力的なテロ運動に参加することを阻止する必要があると指摘した[50]
工作員

適切な軍事訓練を受け、部隊を指揮できる指揮官の数は不明である。 2011年にビンラディンの自宅事務所を襲撃して押収した文書によると、2002年時点で中核となる構成員は170人だった[51]。その後アルカーイダは2006年時点で40か国に推定数千人の指揮官を潜入させていた[52]。しかし2009年の時点で活動中の指揮官は200?300人にすぎなかった[53]

2004年のBBCのドキュメンタリー「The Power of Nightmares」によると、アルカーイダの結びつきは非常に弱いため、ビンラディンと小さな派閥以外は存在しているとは言い難かった。テロ容疑での多くの容疑者が逮捕されたが、有罪判決を受けたアルカーイダの構成員はとても少なく、アルカーイダという名目を満たすような広範な実体が存在したかどうか疑わしいと報じられた[54]
戦闘部隊

ロバート・キャシディによると、アルカーイダは2006年時点で2つの部隊を維持しており、イラクパキスタンの地元反乱軍と活動を共にしている。アルカーイダの戦闘部隊は最初はソビエト・アフガニスタン戦争における「反乱軍として組織され、訓練され、装備された」数万人の兵士だった。この部隊は主にサウジアラビアやイエメンのムジャヒディンによって構成されており、兵士たちの多くはボスニアソマリアで世界的なジハードのために戦った。別の一団は西洋に住んでいて初歩的な戦闘訓練を受けた兵士たちで、2006年の時点で1万人ほどが居た [55]
資金
サウジアラビアの支援

1990年代のアルカーイダはオサマビンラディンの個人財産[56]とヘロイン取引、クウェートやサウジアラビアその他のイスラム湾岸諸国の支援者からの寄付で資金を賄っていた[56]。 2009年にアメリカ政府内部で「サウジアラビア発のテロ資金は依然として深刻な懸念」という電報を送ったことをウィキリークスが暴露した[57]

サウジアラビアがアルカーイダを支援しているという最初の証拠は、ボスニア警察が2002年にサラエボで押収したアルカーイダ初期の資金提供者のリスト「ゴールデンチェーン」である[58]。アルカーイダの亡命者ジャマル・アル・ファドルによって検証された手書きのリストには、寄付者と受益者の両方の名前が記されていた[58] [59]。オサマ・ビン・ラディンの名前は受益者として7回登場し、寄付者にはアデル・バタジ(Adel Batterjee)やワエル・ハムザ・ジュライダン(Wael Hamza Julaidan)など20人のサウジアラビアと湾岸を拠点とするビジネスマンや政治家が記されていた[58]。アデル・バタジは2004年に米国財務省によりテロ資金供与者に指定された。ワエル・ハムザ・ジュライダンはアルカーイダの創設者の一人とみなされている[58]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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